札響とのこと

 「札響のこと」ではなく「札響と自分がどう関わってきたか」を今から振り返って整理しておこうと思いブログを書くことにした。そのため題名も「札響とのこと」にした。

 最初に、札響を初めて聴いたのはいつだろうかとか、定期会員になったのはいつだったろうかなどおおよそ検討はつくのだけれどはっきりとした年月日が分からないので、「札幌交響楽団50年史」を購入してそれを読みながら記憶を辿ってみることにした。

 

 札響を初めて聴いたのは昭和55年(1980年)2月22日、国際ロータリー5周年記念だった。招待券をもらって聴きに行ったのが最初だった。1曲目のモルダウでヴァイオリンが艶やかな音を奏でた時の驚きは今も覚えている。

 それから北電ファミリーコンサートという無料のコンサートがあることを知り、札幌市民会館に聴きに行った。当時はHBCラジオで放送されていて、ポールタウンのススキノ側にあったHBCのインフォメーションセンター(今はない)でチケットを配布していた。

 

 定期演奏会を最初に聴きに行ったのはいつだったろうと、「札響50年史」の定期演奏会を見てみると記憶にあるのは昭和56年(1981年)2月17日、第212回定期演奏会だった。指揮はモーシェ・アツモン、ヴァイオリン独奏 数住岸子、メンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」、チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲、ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」だった。それから札幌教育文化会館でもこの頃に一度聴いたことがある。ブラームス交響曲第2番を演奏したのは覚えているが眠かった記憶だけが残っている。

 その後の定期演奏会で記憶にあるのが同じ年の9月29日、第218回定期演奏会ハイドン交響曲第82番、廣瀬量平ノーシング-北へ、ベルリオーズ幻想交響曲だった。このときから1年間ぐらいハイドンシリーズということでハイドンの曲を定期演奏会では必ず1曲プログラムに載せていた。

 それから昭和60年(1985年)12月10日の第265回定期演奏会でのワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死。これはアンケートでリクエストをしたところ、間もなくプログラムに取り上げてくれたのでよく覚えている。最後の一番肝心なところで座席の近くの人が急に咳をし出して、睨みつけたことも記憶にある。

 

 年間定期会員になったのは昭和61年(1986年)シーズンからだったと思う。その中では第300回の市民会館で荒谷正雄が指揮したことは記憶にある。

 残念なことで記憶にあるのが平成元年7月13日の第305回定期演奏会ブルックナー交響曲第4番で冒頭のホルンの音が全く出なかったことがある。それからもほとんど音が聞こえなくて、終演後、ソロを弾いた人を指揮者が立たせる時もホルン奏者の方は首を横に振り座ったままだった。

 

 北電ファミリーコンサートで覚えているのは、ヴァイオリニストの江藤俊哉氏が出演した時。テレビCMに出ていたので大変人気があった。チケットも早くから配布済みになった。私が聴いた中で1回目はとても良かったが、2回目には聴衆の受けが悪くそれ以来、来ることはなかった。

 その他、ベルリン・フィルコンサートマスター ミシェル・シュヴァルベがベートーヴェンヴァイオリン協奏曲を弾いたことも覚えている。演奏中、かなりの人が寝ていたようで弾き終わると同時にシュヴァルベが「おやすみなさい」と言った。

 もう一つ残念なことで覚えているのが、展覧会の絵で最後のキエフの大門でドラを吊している金具が外れて下に落としたことがあった。

 

 定期演奏会を聴きに行くようになると無料チケットの北電ファミリーコンサートとの音の違いが次第に気になるようになってきたことと、札幌だけではなく地方都市でも開催する頻度が多くなり次第に足が遠のいていった。

 そして、平成2年(90年)からPMFが始まり、学生たちのオーケストラの方が当時の札響よりもいい音を出すことに衝撃を受けた。外国のオーケストラと札響の演奏の違いも気になり始めてきたこともあり、おそらくだが92-93シーズンの終了と同時に更新せずに定期会員を退会した。その後、Kitaraがオープンするまで札響は聴いていない。

 

 「50年史」には掲載されていないが、定期会員の時(昭和63年(88年)3月頃か?)、札響を聴きに来ている人と演奏者との懇親会を事務局の方が設定してくれて、それに参加したことがある。懇親会の案内は演奏会のチラシと一緒になっていたと思う。

 「50年史」には楽団員だけではなく事務局の方の在籍者名簿もある。事務局で覚えているのが久津見悦子さん。当時、札響事務局は教育文化会館内にあった。教育文化会館の視聴覚センターでは札響定期演奏会のテープ録音を全曲聴くという催しもしていて、それに毎週のように参加していたこともあり、熱心に札響を聴きに来ているということでいつのまにか顔を覚えてもらった。

 その久津見さんが中心になって企画された懇親会のようだった。立食で楽団員とファンが一つのテーブルになるように案内され、久津見さんが楽団員に私たちを紹介してくれたが、楽団員の方たちは話をするどころか目も合わせてはくれなかった。結局、楽団員の内輪のパーティーにおじゃましているような感じだった。翌年以降も数回開催されたようだがもう行かなかった。

 その久津見さんも平成4年(92年)度で退職した。そのことも定期会員を退会する踏ん切りがついた理由の一つだった。

 

 次に札響を聴いたのはKitaraがオープンして間もない頃だったと思う。新しいホールができたので久しぶりに札響を聴いてみようという気になったのだろう。「50年史」の定期演奏会一覧を見ると平成10年(98年)2月第399回定期演奏会がオールワーグナープログラムなので、これを生演奏で聴きたくて聴きに行ったのかもしれない。電話でチケットを予約すると、当日、チケット売り場に用意しておきますからと言われた。しかし、当日、チケット売り場に行ったらチケットが用意されていなかった。仕方がないので当日券を買ったが思い通りの座席ではなかった。後日、予約したときに電話に出た方から連絡があった。予約したチケットは机の上置いたままだったらしい。語気を強めて文句を言ったら逆に、仕方が無いようなことを言い返された。定期会員を退会すると冷たいものだなと思ったと同時に、こんなことで札響は大丈夫かとも思った。次に札響を聴くのは10年後、平成20年(08年)の名曲シリーズ、定期演奏会を聴きに行くのは更に3年後の平成23年(11年)になる。

 

 久しぶりに札響を聴くようになると以前はなかったことが、たくさんあった。そこで「50年史」から引用しながら、いつ頃、何があったかを書いておきたい。

 

 平成8年(96年)6月に「名曲シリーズ」がスタートしている。8月には「札響くらぶ」が発足している。

 平成9年(97年)7月にKitaraが開館。それに伴い事務局も札幌市教育文化会館からKitaraに移転した。北海道拓殖銀行破綻はこの年の11月。

 平成10年(98年)拓銀の破綻を受けて法人会員が減少。この頃からPMFと札響の関係改善が図られてきたらしい。「50年史」の平成2年(90年)の「PMF始まる」という章には「開始の時の齟齬から生まれた札響との不協和音はしばらく尾を引いた」とある。確かにPMFが始まったとき、札響は「蚊帳の外」という感じは私のような部外者でも思っていた。それが改善の兆しが出てきたのがこの年のようだ。

 平成12年(2000年) 昭和53年(78年)から、赤レンガ道庁前庭や知事公館構内で開催されていた札幌市のグリーンコンサートは、この年が最後だったようだ。始まった当初はとても人気があり、札幌の夏の風物詩のようになっていた。しかし、PMFが開催されるようになると、PMFの日程と関係ないところで札響が独自にコンサートを開催しているという感じがしていた。あくまでも推測だが、PMFとの関係が改善されたことにより、この時期の大規模なコンサートは開催できなくなったのだと思う。

 平成13年(01年)の章で、常任指揮者の尾高忠明氏がインタビューで「Kitara開館直後のころ、このすごいホールを鳴らし切るだけの音量が出せず、明らかにホールに負けていた。それが最近、ホールに見合う音量を出せるようになっている」と語っている。札響の音が変わってきたのはKitaraが開館して数年が経ったこの頃のようだ。札響のホームページが立ち上がったのもこの年だった。

 平成14年(02年)3月、北電ファミリーコンサートのラジオ放送が終了した。この年の10月に札響が経営危機にあることがマスコミで報じられた。定期会員宛の年賀状と暑中見舞いが始まったのはこの年の暮れからのようだ。

平成15年(03年)、今年初めて聴きに行った札響ポップスコンサートがこの年から始まっている。札幌駅前の「妙夢コンサート」もこの年からのようだ。札響マスコットキャラクターの「ピリッキー」もこの年に誕生した。

 平成16年(04年)「50年史」には「1月、ホテルロイトン札幌で『札幌交響楽団ニューイヤーコンサート&新年交流会』が開かれ・・・会員や音楽ファンとの接点を開こうと初めて企画された」と書かれている。しかし、これは先に書いたように、内輪ではあるけれども、交流会は以前も開催されたことがある。

 「50年史」のこの年の章には楽団員(ユニオン)と事務局との関係が書かれている。この年に事務局長に就任した宮澤敏夫氏は次のように語っている。「事務局がユニオンとの緊張関係に萎縮してしまうようだと、楽団の成長はおぼつかない。札響の危機の源はそこにあったわけだし、今にして思うとそれは、日本のオーケストラが負った不幸な歴史だった。双方がこのことに気付いて楽団を立て直した我々は、大きな学びを得た。」と言っている。また、「50年史」には「事実80年代までに道内全域に築いてきた各自治体や音楽団体との強い結び付きは、90年からこの時期にかけ、事務局とユニオンの齟齬を遠因として急速に衰えた」とも書かれている。

 そんなことを考えると以前、開催された交流会で楽団員の方が一言も話してくれなかったのは、ファンに対してというよりも事務局が企画した行事に楽団員(ユニオン)が乗り気ではなかったからではないかと、今は思っている。

 

 平成17年(05年)4月から定期演奏会が金曜夜と土曜午後の2公演になり、年11回から年10回になった。また、夜公演の開演時間が午後6時45分から午後7時になった。

 開演前のロビーコンサートもこのときから始まったようだ。ロビーコンサートの時、他の楽団員さんもかなりの人数が聴きに来ていて、本番前の集中しなければならない時間なのになぜだろうと不思議だったが、これはどうやら場内整理のためらしい。場内整理は楽団員自らがするということでKitaraホール側を説得したらしい。

 この章には終演後、ホワイエでの見送りの写真が掲載されているので、この終演後の見送りもこの頃には始まっていたようだ。

 平成18年(06年)9月に札響合唱団が設立して、12月の第九公演でデビューしている。12月定期にはラドミル・エリシュカ氏が初登場。

 平成19年(07年)1月に札幌市民会館が閉館。

 平成20年(08年)「50年史」によるとPMFとの関係改善がはっきりと見えてきたのはこの頃からのようだ。

 この年の10月25日に名曲シリーズを聴いている。ワーグナー管弦楽曲がプログラムにあったので聴きに行った。札響を聴くのは10年ぶりで、その時に書いた感想は次のようなものだった。

 「久しぶりに札響を聴いた率直な感想は、札響もレベルが上がったなあということでした。演奏が以前の札響よりもはるかに充実していました。メンバーも随分と若い人が増えていました。以前はすぐにそれとわかるベテランの人たちがいましたがそういう人はほとんどいませんでした。札響も安心して聴けるオーケストラになったようです。帰りも出口のところにコンサートマスターとか札響の理事長?のような方が『ありがとうございました』と来場者一人一人ら声を掛けているところなどは、十数年前に私が札響の定期会員だったころには考えられませんでした。」と書いている。

 札響を聴いたのは10年振りだったが、平成17年(05年)にはラトル指揮ベルリン・フィル、1ヶ月前の9月にはムーティ指揮ウィーン・フィルを聴いている。それでも札響の演奏は良かったと好印象を持っていたのである。

 平成21年(09年)この頃からエリシュカ札響の演奏がCD化などにより全国的に知れ渡るようになったらしい。10月に全国のオーケストラに先駆けて「公益財団法人」になっている。

 平成22年(10年)6月にKitaraホールカルテットがデビューしている。最初のメンバーは伊藤亮太郎、三上亮、廣狩亮、石川祐支だった。私が聴きに行った頃には第1ヴァイオリンは伊藤氏から大森潤子氏に変わっていた。3年間という期限だったらしく、最後の2回か3回ぐらいを聴いていると思う。

 平成23年(11年)「50年史」はこの年の6月の記述で終わっている。この年の9月から始まった尾高忠明指揮による「ベートーヴェン・ツィクルス」から札響を聴き始め、翌年の4月から定期会員に復帰した。

 

 札響の音はKitaraが開館して、このホールでいい響きを出すことを目指しながらレベルアップしていったようだ。

 ロビーコンサート、終演後の見送り、年賀状と暑中見舞い、新年交流会、定演の2公演化など定期会員を辞める時はなくて、復帰したときに初めて目にしたものは経営危機が表面化して、再建の取り組みの中で始まってきたらしい。

 Kitaraが開館して札響の音が良くなってきた頃に経営危機が表面化したようだ。それから現在も続く様々な取り組みがされてきたのだろう。

 

 定期会員に復帰してからのことはまた後編として書く予定です。