MDRライプツィヒ放送交響楽団演奏会

 10月27日、クリスチャン・ヤルヴィ指揮、アン・アキコ・マイヤーズヴァイオリン独奏、MDRライプツィヒ放送交響楽団を聴いてきた。指揮のクリスチャン・ヤルヴィは父がネーメ、兄がパーヴォである。ヴァイオリンソロのアン・アキコ・マイヤーズは母が日本人で米国生まれ。

 MDRライプツィヒ放送交響楽団は1923年に創立された。MDRは中部ドイツ放送のこと。

 曲目はJ・S・バッハ/メンデルスゾーン編曲管弦楽曲第3番より序曲、メンデルスゾーンヴァイオリン協奏曲、アンコールは「荒城の月」。後半はベートーヴェン交響曲第5番でアンコールは「カヴァティーナ」だった。

 中・高音部の弦に厚みがあり統一感があるのが印象的だ。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ではマイヤーズの音色はクーレンカンプのような冷たく冴え渡るような響きだった。この響きはオーケストラの響きと対照的でヴァイオリンの音色を際立たせていた。アンコールは荒城の月。寒々とした晴れた夜に煌々と瞬く満月のようだった。

 

 後半はベートーヴェン交響曲第5番。誰もが知るこの曲は、以前はフルトヴェングラーに代表されるようなテンポを変えたり抑揚を付けたりするようないわゆる「ロマン主義的」な解釈が名演とされてきた。その反動なのか、「楽譜通り」にテンポを変化させず抑揚もあまり付けずに、やや速めのテンポで一気呵成に演奏するような「古典主義的」な演奏が近年の「流行り」のようになっていた。

 この日のヤルヴィの演奏は「ロマン主義的」な演奏のようでテンポの変化はあまりなかったが、抑揚を付けた演奏で近年あまり聴かれなくなった演奏だった。それがドイツのオーケストラで聴くことができた。果たしてこれからベートーヴェン交響曲第5番はどのように演奏されるのだろうか。

 

 前日に札響名曲を聴き、翌日にMDRライプツィヒ放送交響楽団を聴いたので両日の響きの違いについて書いておきたい。札響はヴァイオリン、チェロ、コントラバス木管金管、パーカッションなどが楽器ごとにそれぞれはっきりと聞こえる。それに対してライプツィヒは一つのまとまりとして聞こえていた。

 札響のように各楽器がそれぞれはっきり聞こえるのはKitaraの音響のためだと思ってきたがどうもそうではなくオーケストラによって違うようだ。「一つのまとまり」と書いたが逆に言うと聞こえない楽器が多々あるともいえる。コントラバスファゴットはまず聞こえなかったし、金管、打楽器はいいとしても木管もやや不鮮明だった。

 この響きの違いは何なのだろう。7月にN響を聴いたときも似たような響きの違いを感じた。オーケストラなのだから一つのまとまりとして聞こえることが悪いはずはない。

 KitaraではPMFオーケストラも札響のように各楽器がそれぞれはっきりと分かれて聞こえる。それもPMF生だけのときよりも教授陣が首席で加わったときの方がその傾向が強くなる。そう考えるとオーケストラの力量の差というよりもKitaraでのリハーサル時間の違いということなのかもしれない。Kitaraで時間をかけてリハーサルを行い、響きを作り上げていくと各楽器がそれぞれはっきりと聞こえるようになるのかもしれない、ということも感じた。

 ホールの音云々はそのホールを本拠地にしているようなオーケストラでないと軽々なことは言えないのかもしれない。

 

 MDRライプツィヒ放送交響楽団に話をもどすと、チェロの首席奏者が右足を前に出し、弦を弾いた後に弓を高く上げてかなり大げさに弾いていたのが目に付いた。

 ヨーロッパの楽団員にはモデルと見紛うような人もいて前半のフルートとオーボエの1番に座っていた方がそうだった。後半フルートの方は2番になってオーボエの方は男性奏者に替わっていた。

 

 終演後、正面だけではなく後方、右、左にもおじぎをするのが慣習になってきたのだろうか。10月のミュンヘン・バッハの時もそうだった。日本のオーケストラでは見たことはないけど、いずれそうなるのだろうか。