荒谷正雄 日本フルトヴェングラー協会講演録

◯司会(田伏紘次郎)

 フルトヴェングラー協会では会員各位のために、この度1937年から38年にかけてウィーンとベルリン・フィルハーモニー定期会員として長らく(ヴィルヘルム・)フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler 1886-1954)の演奏をたくさん聴かれた荒谷正雄先生から当時のフルトヴェングラーについて、貴重な思い出を語っていただけることになりました。では、荒谷先生どうぞよろしくお願いいたします。

 まず最初に先生がドイツに行かれた御事情とかフルトヴェングラーを聴くようになられた経緯からお願いしたいと思います。

(注1:36年~38年ウィーン、38年~39年スイス、39年~45年ベルリンに滞在。)

◯荒谷先生

 私が荒谷正雄(札幌交響楽団 初代常任指揮者 1914-96)です。どうぞよろしく。今、田伏さんの方からいろいろお話を承っていたんですが、私が向こう(欧州)へ行ったのは、結局、音楽の勉強に行ったわけでございまして、最初まずウィーンでヴァイオリンとそれから指揮法とかいろいろなものを勉強したいということでした。それから私の一番最終的な目的は、ヴァイオリンでもって当時日本でも相当人気が高かったヨゼフ・シゲティ(Joseph Szigeti 1892-1973 ハンガリー出身のヴァイオリニスト)、この人にヴァイオリンの指導をなんとかして受けたいということで渡欧したわけでございます。たまたま後で幸運に恵まれまして、彼がウィーンに演奏会に来たときに私も直接いろいろとお目に掛かって、指導をお願いして引き受けてくれたり、また、その後イタリー(イタリア)で彼の休暇中に勉強に行って彼の指導を直接受けたりして、大変シゲティ先生にはお世話になったわけです。

 かたわらウィーンの音楽生活の中ではなんと言いましてもオーケストラやオペラといった音楽が生活の中心でありますから、当時、先輩の属啓成(さっかけいせい 1902-94 音楽評論家)、それから尾高尚忠(おたかひさただ 1911-51 作曲家、指揮者 尾高忠明の父、渋沢栄一は母方の祖父)、そういった人たちがウィーンにおりまして、私もその人たちのところに行って、まずオーケストラのウィーン・フィルの話、フルトヴェングラーの話題がさっそく飛び出してきたわけですね。「君、フルトヴェングラーというのはなかなか難解な指揮をする」ということで、いろいろと予備知識はあったわけですが。

 私がウィーンに着いたのは、秋、9月から10月に掛けての、もう寒くなってきた頃です。次の年フルトヴェングラーを聴こうというわけで、私が(ウィーンに着いたのが)36年でしたから、37年、このときの演奏を実は初めて聴いたわけです。このことについて率直な印象を申し上げたいと思うのですが、何と言いましょうか。これは37年3月の定期演奏会ですね。このときの演奏で初めて聴いたのが「魔弾の射手」(序曲)。そして最後にフルトヴェングラーのピアノで「ブランデンブルク第5番」とブラームス交響曲第2番)でした。それで二人の方から非常に難しい指揮法であると聴いていたんですが、「魔弾の射手」の序曲が始まって、目の当たりにして最初の指揮を見ていたんですが、とにかく微動だにしない静粛の中から曲が段々、段々と、こう進むにつれて徐々に興奮してくるんですよ、何か憑きものになったような、そして左右に首を振りながら、どんどんクライマックスにいくわけです、興奮してくるわけですね。特にこの最弱音から最強音へのダイナミズム。それから前身で表現する躍動する力というのは、全く超人的なエネルギーなんですね。これにはもう完全に圧倒されてしまいました。

 私もその時はそういうようなことで、もう夢心地のようなことでもって、帰ってきたわけですが。彼の音楽というものをいろいろと考えてみますと、常に旋律における陰と陽ですね。陰と陽が非常にデリケートなので強弱の変化とともにテンポがこれに微妙に流動していくわけです。そういったような細かい表現が非常に彼独特のものを持っているのではないかと思うわけです。そういったような細かい表現が非常に彼独特のバネを持っておりまして、非常に弾力のあるリズムを持っております。特にフルトヴェングラーの音楽をお聴きになる場合には、スフォルツァンド(sf.)の魅力。これが他の指揮者との扱いがちょっと違いまして、非常に弾力のあるスフォルツァンドを使うわけなんですね。こういったことが音楽の表現の一つとしてわかりやすいのは、例えばシューベルトの音楽を聴いたときなんかがこのスフォルツァンドが非常によく判るんではないかと思います。リズムのバネの点では、シューベルトの「ロザムンデ」のバレエミュージック。ああいった作品なんかでも他の指揮者にはできないような独特のバネを持ったリズムが表現されている。非常に私共には魅力だったと思います。

それから後は、彼の曲に対する解釈。これは当時からいろいろと言われていたことでありますが、私も考えていましたように、哲学的な「思考」から「美」を掘り下げることであると。

 それから崇高なまでに「魂の尊厳」が音楽の中に息吹いているんですね。

 それから、常に無の状態から発して無限大に「美学」が表現されている、追求されている、というところが非常に彼の大きな特徴ではなかったかと思います。当時もたくさん著名な指揮者がいたわけですよ。でもどの指揮者のものを聴いても、他の追随を許さないような強烈なものを持っておりました。

 もし仮にですよ、御質問の中にもあったんですが、彼のような超人的な指揮者が今後現れた場合、果たしてこれからの時代に十分に応えられるだけの環境があるかどうか、ということが一つの問題としてあるのではないかと思います。

それから、音楽をまとめる上での物理的条件が果てして与えられるかどうか、ということが、またその中に入ってくるのではないかと思います。

 そして、それと同時に音楽を受け止めて表現するプレーヤー、この問題があります。そのプレーヤーが音楽性や心情などを受け止めて演奏できるかどうか、そこのところが私にはどうもこれからの疑問なんですね。その当時のような再現ができるかどうか。

結局、音楽、芸術の求める美というものは時代と共に異なっていくわけですから、その技術的にオーケストラプレーヤーが非常に達者な面はあっても、その「美の創造」とは必ずしも正比例していくわけではないのではないか、と考えられます。それがフルトヴェングラーの音楽に関することであります。

 後は御質問の中にありましたのは、生演奏と録音の相違点というのがございました。これは比較対象にならないと思います。特に当時の録音技術というのは非常にまだ未熟でしたから。今日のようなものではありませんでしたから。これは問題にならないと思います。

 ただ、私がレコードで聴いた中で非常に悪い録音であったのですが、大変これは参考になる一枚だと思います。1944年「魔弾の射手」序曲がポリドールレコードから出ていまして、(ベルリンの)オペラ劇場で録音したものです。これを私、聴いておりまして録音が非常に悪いということを超えてしまって、フルトヴェングラーの気迫が表れた姿がレコードに出ているのではないかと思います。この曲も彼の最も得意とする曲ですから、このオペラは。こういった気迫とかそういうものが彼の一面を知るには聴いてみる値打ちがある一枚ではないか、ということを考えながら聴いておりました。非常に変化があるわけですね、曲の中にはいろいろな変化がありますから。

 それからもう一つこういう古い話をしておりますと思い出すのが、彼が(振っていた)両方のオーケストラ、ウィーン・フィルベルリン・フィルの音色ですね。ベルリン・フィルの場合には、私も6年間ベルリンに居りましてベルリン・フィルのことはすっかり馴染みになったんですが、非常に暗い、それでいて重厚な力強さを持っていると。それと対照的にウィーン・フィルは実に華麗であると。華やかで、それでいてちょっと洒落たような「寂び」があるのですが、美しさを持っていると。それで特にウィーン・フィルの場合には木管と弦は当時の世界的なオーケストラの中では抜群でしょう、ウィーン・フィルの弦というと。実に明るくて、そして何と言うのか爽やかな音で張りがある。これは大変な魅力でした。ですから、ベルリン・フィルとかウィーン・フィルの音を聴いておりまして、外国へときどき旅をして外国のオーケストラの音を聴くと、どうも何となく、またどこへ行っても物足りない物足りないという気持ちで帰って来るというようなことが度々ありました。

 それから後、御質問の中で聴衆とマスコミの反応とか、演奏会場の雰囲気、フルトヴェングラーに対するドイツ人の敬愛や心の結びつきはどうだったかというような御質問がありましたが、これについてドイツ人は音楽好きな国民でありますし、指揮者、オーケストラと、とにかく一体になって聴衆が楽しんでいたということが実情でございます。そして、常にフィルハーモニーのホール、奏楽堂はそういった熱気に溢れた雰囲気でもって演奏が行われていました。国民はちょうど戦争で不幸な状態でしたが、心の糧を音楽に求めていたのではないかと思います。これだけのやはり優秀な素晴らしい音楽家ばかり生んでいる歴史を持った国民性ですから、とにかくドイツ人と言えばイコール音楽と来るわけですが、大衆は彼の音楽の「美」を、ちょうどやっぱり戦時下なんでしょうか、「救世主」に近い存在として僕は心の拠り所にしていたと思います。

 ドイツ滞在中、ラジオ放送でフルトヴェングラーの演奏が放送されていたかという御質問がございましたが、これは実況放送として定期演奏会が終わった後、必ず放送されておりました。この当時ベルリンに二つ放送局がありました。1942年頃ですが、ベルリンのライヒゼンダー(ベルリン帝国放送局)これはよくレコード等が出ております。それと国立のドイッチュランドゼンダー(ドイツ中央放送局)というのがあったんです。この二つが大きな放送局で、ドイッチュランドゼンダーの方が全ドイツ的なエリアを持った放送局です。(フルトヴェングラーの演奏は)どっちで放送していたか記憶が薄いんですが。

 ナチ政権下で抵抗したことについての印象ですが、これは本にもなっておりますし、大分フルトヴェングラーゲッベルスナチス政権下の宣伝大臣1897-1945)やそういう人たちとやり合って、ヒンデミット事件以来、ユダヤ人を庇って、これは時代人というのではなくて、音楽を愛する人間、音楽を一緒に共に演奏する人間を皆庇うと、それは彼の当然の行動だったのではないかと思います。

それから、もう一つの質問の事項としては、(ヘルベルト・フォン・)カラヤン(Herbert von Karajan1908-89)とフルトヴェングラーの確執ですか。ベルリンの聴衆の本当の評価、印象などはどうだったかというのがございました。これは若い人たちはやはり当時のフルトヴェングラーの重厚な重いドイツロマンの音楽とは対照的に、何かもっと明るい爽やかなものを求めるという気持ちが出てくるわけです。そういった時にちょうどカラヤンの非常に即物的な明快な音楽、そういったものが若い人たちの一部には大変なファンがおりました。私も何枚か持っていました。

 そして、最後に聴いた公演ですね。これは1944年12月ですか、アドミラル・パラストというところで、(旧)フィルハーモニーのホールが焼けて追われて国立劇場やいろいろなところへ行ってアドミラル・パラストへ行ってしまったんですね。それは記憶があります。それからせっかくのいい演奏が空襲警報で中断されたこともありました。その時は一緒に避難しました。皆で廊下に出て、「ああ、残念」という話もしたこともありました。

 それから演奏会の中で印象に残ったものをかいつまんで申し上げますと、先程、最初に出ました1937年3月の「魔弾の射手」序曲から始まった(ウィーン・フィルの)定期演奏会。それから、11月(ベートーヴェンの)「第九」を演奏しております。これはなかなか面白かったですよ。私はフルトヴェングラーの前に(フェリックス・)ワインガルトナー(Felix Weingartner1863-1942)の「第九」ウィーン・フィルで聴いてるんです。これはワインガルトナーはもう滅多に指揮をしておりませんでしたが、お祭りか何かの行事だったんでしょう。それで特にワインガルトナーが振るというので非常に期待して行きました。この時の「第九」は本当に素晴らしかった。というのは、フルトヴェングラーと全然違って、もう実にアカデミックな整然とした「第九」なんです。もう何と言うのかなあ、これが本当に「時代」なのかなあというような、当時聴かれないような素晴らしい完成された「第九」でした。その後にフルトヴェングラーが来たものですから、これはまた非常にロマンチックで凄い気迫のある演奏でした。でも当時、自分が若かったせいで、初めて聴いているような時代で、まだフルトヴェングラーの心境なんかがよく掴めなかったんですが、第三楽章はやや流れが多すぎて、そして一つ一つのけじめが流れていってしまうというような印象をその当時受けました。まだ自分も若かったですから。その前に聴いたワインガルトナーが実にそこを整然ときちっと均整とれた第三楽章だったんですね。他の楽章は、フルトヴェングラーは素晴らしかったんですが、第三楽章だけは何かまだちょっと私自身が付いて来れないような心境だったのではないかと思います。後で、ベルリンで聴いた時の「第九」はそういうことは全部超越してしまって、それこそすっかり聴き惚れて聴いていました。

 それから1940年ドヴォルザークの「チェロ協奏曲」。これが印象が強いですね。というのはその当時チェロの本当の独奏者というのはあまりいなかったんです、コンチェルトを弾く人は。(ティボル・デ・)マヒュラ(Tibor De Machula 1912-82)という人がいまして、ベルリン・フィルの第一チェリストです。この人が初めてドヴォルザーク(の協奏曲)を弾いたんです。これが素晴らしい演奏で非常に印象に残っております。この人は戦後アムステルダム・コンセルトヘボウに移りましたが、それが非常に印象に強いです。

 それから、1941年。これがまた面白いのはバッハの「無伴奏のパルティータのシャコンヌ」これは(ゲルハルト・)タシュナー(Gerhard Taschner 1922-76)という人なんですが、これは驚くなかれ19歳。

◯会場

 これは1941年の11月30日ですね。

◯荒谷先生

 そうでしょう。この人は1922年生まれなんですよ。これは当時ベルリンで話題になったんです。これはいきなりフルトヴェングラーがズデーテンドイツ(チェコのドイツと国境を接する地方。38年のミュンヘン会談でドイツに併合されていた)からスカウトしてきたんです。誰も知らなかった。この人は(ブロニスラフ・)フーベルマン(Bronisław Huberman 1882-1947)とか(イェネー・)フバイ(Jenő Hubay 1858-1937)、ハンガリー系の弟子なんですね。なんと若干19歳ですから。それで(ジークフリート・)ボリース(Siegfried Borries 1912-80)というのが(ベルリン・フィルの)第一コンサートマスターでいたんですが、そのボリースがもう辞めるという噂が出ていたんです。それで次は誰が来るだろうと。そして第二コンサートマスターにエーリッヒ・レーン(Erich Röhn 1910-85)というのがいたんです。彼はしょっちゅうコンチェルトなんかを弾いていますけれども。ボリースの後が誰だろうと思っていたところが、ポッとこの若いタシュナーを引っ張ってきたんです。これは一つの文学的用語で言うと「デモーニッシュ」というか暗い悪魔的なものを持って凄い魅力があるんですよ。ジプシーのみたいな奔放な弾き方をしまして。

◯会場

 ジプシー奏法みたいなものですか?

◯荒谷先生

 そうジプシー奏法です。ジプシーの演奏法が入っているんです。これが凄いんです。私なんかもヴァイオリンをやっておりましたから、このタシュナーの演奏は凄く魅力的でした。

◯会場 

 ジプシー奏法について先生は抵抗はありませんでしたか?

◯荒谷先生

 全然ないですね。というのはジプシー奏法というのはジプシー音楽を演奏すればジプシー奏法ということを言うんでしょうが、普通の音楽を演奏している分には、ジプシー奏法というのは二つ考え方があって、ツィンバロムハンガリーの打弦楽器)かなんかのように演奏するのをジプシー奏法といいますが、ああいうのとは違うんです。自由奔放にアカデミックなことを考えずに自分の感情でどんどん音楽をもっていくという、それをクラシックの世界ではジプシー奏法と言います。

 それで私が師事したシゲティという人がやはりハンガリー人で、シゲティの親友でストーダー(フバイの後継者として知られていた)という人が居まして、その人のお姉さんか妹がワインガルトナーの奥さんです。当時ワインガルトナーと一緒に日本にも来たんです。(ワインガルトナーの奥さんの)ストーダーという人は指揮もするんです。女流指揮者として日本で初めて指揮をした人です。その人の兄弟でプロフェッサー・ストーダーという人がスイスに居たんです。それで私はシゲティから、ウィーンに居ても勉強はもういいから、スイスへ行ってこのストーダーという人の所へ行きなさいと。ここで本当のフバイの演奏を習いなさいと。そこで僕は一年間がっつりストーダーに仕込まれました。その時に、ストーダーはハンガリー人ですから、フバイの調子でフバイの生徒をストーダーが教えていたわけです、ブダペストで。そんな関係でジプシー奏法の話が出たんですよ。

 ヴァイオリンを弾かせたら世界で右に出るものは居ないのがジプシーだと。ただこれだけではわかりませんから、感性だけで弾いているわけですから。これに本当に規則的な勉強を与えたのが世界のヴァイオリニストだと。そういう才能を持っているんだと。

◯会場

 それでハンガリーから素晴らしいヴァイオリニストが出てくるんですね。

◯荒谷先生

 そうなんですね。ですからドイツのヴァイオリニストというのは、上手ではあっても非常にアカデミックでそういう何か官能的な魅力というのが少ないでしょう、ドイツのヴァイオリニストは、理屈は叩くけど。そういう訳でタシュナーのジプシー的な奔放さというのは非常に当時新鮮な魅力がありました。

◯会場

 大変な評判だったんですか?

◯荒谷先生

 大変な評判でした。

◯会場

 シャコンヌを弾いていたんですか?

◯荒谷先生

 シャコンヌです。それが紹介、お披露目の演奏です。その何ヶ月か後(注:42年6月に演奏記録あり)にブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」を(フルトヴェングラーの指揮で)弾いたんです。これは素晴らしい演奏でした。あの曲はジプシー的ですから、特に第三楽章はタシュナーの本領です。凄い演奏でした。

◯会場

 それからこの日にドヴォルザークの「新世界交響曲」を演奏してましてCDになっているんですが、この「新世界交響曲」について先生、お聴きになっていますか?

(注2:現在のディスコグラフィによると、このCDはフルトヴェングラーではなくオズワルド・カバスタ指揮によるミュンヘン・フィルの演奏ということになっている。ただ、この日にフルトヴェングラーが新世界交響曲を指揮したことは記録に残っている。)

◯荒谷先生

 はい、聴いています。

◯会場

 これはフルトヴェングラーの演奏ではないと、フルトヴェングラーを実際に聴いたことのない人でそういうことを言う人が居るんですが、当時のベルリン・フィルの奏者は、これはフルトヴェングラーの録音であるという発表はしているんです。先生、これお聴きになって如何ですか?

◯荒谷先生

 どうしてフルトヴェングラーでないというわけですか?

◯会場

 それはあまりにも率直なフルトヴェングラーらしくない速いテンポでザッハリッヒ(即物的)な演奏をしているということなんですが。

◯荒谷先生

 それは非常に言えるのではないですか。というのはフルトヴェングラーらしくないというのは、フルトヴェングラー自身がやはり一つの「新世界交響曲」というものに対する考え方であって非常に新鮮な「新世界交響曲」でしたよ。というのは「新世界交響曲」というのは持ち回りばかりの演奏が多くて、やっためたらにこうなって、それが僕はフルトヴェングラーは非常に哲学的というふうに僕が言っているのはそのことなんだけれども、やっぱり(他の指揮者とは)考え方が違う。チャイコフスキーの(交響曲)六番と同じですよ。全然物事との考え方が違う。それで結局彼なりの考え方でもって「新世界交響曲」を解釈して演奏している、というところがお化粧だらけのコテンコテンの演奏とは違ってしまったということになるんだと思います。

◯会場

 普通の「新世界交響曲」とは違うということですね。

◯荒谷先生

 違う。それは確かに僕は違うと思いました。

◯会場

 先生、これをお聴きになってフルトヴェングラーの演奏だという印象はありますか?

◯荒谷先生

 そのレコード何か聴いたことがあります。レコードを、確かいただいていましたね。僕はフルトヴェングラーと思って聴いていましたけれども。

◯会場

 フルトヴェングラーを聴いていない方が、ベートーヴェンなんかの例の普段の演奏のようでないので、あまりザッハリッヒな演奏だからこれはフルトヴェングラーではないのではないか、ということを言っているのですが。

◯荒谷先生

 それはもうちょっとフルトヴェングラーを知る必要がありますね、それだったら、(フルトヴェングラーの)いろいろな面をね。

◯会場

 それから先生、ウィーンではフルトヴェングラーをお聴きになった印象で、オペラはフルトヴェングラーはどうでしたか。

◯荒谷先生

 これは「フィデリオ」とか、「フィデリオ」はいつだったか忘れましたが、あと「ニュルンベルクのマイスタージンガー」がいつだったかな。

◯会場

 1937年11月25日です。ウィーン国立歌劇場で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を演奏しています。

◯荒谷先生

 これ聴きました。これは素晴らしかった。

◯会場

 この録音が最近出まして。

◯荒谷先生

 出るんですか!

◯会場

 この中の一部なんですが。

◯荒谷先生

 あっ、全部じゃないんですか。

◯会場

 これが発見されまして、これは先生お聴きになってますか?

◯荒谷先生

 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ですか?ええ、この配役を見て思い出しました。マックス・ロレンツ(Max Lorenz 1901-75 テノール)ですもの。もう絶対出てこないようなヘルデン・テノールですからね。

◯会場

 ロレンツが歌ったものが出るんです。

◯荒谷先生

 ああ、出るんですか。それは楽しみですね。

◯会場

 全曲ないのが残念なんですけど。一部で全部で10分くらいしかないんですが。37年度のウィーン国立オペラの全部の録音からフルトヴェングラーの演奏したものを出すということです。

◯荒谷先生

 そうするとあのマックス・ロレンツが歌っているあの場面が出てくるわけですか?

◯会場

 そうです。それがこれなんです。この演奏は大変な名演でしたか?

◯荒谷先生

 これは素晴らしいですよ。フルトヴェングラーは「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は得意中の得意ですから。全然違います。

◯会場

 ウィーンでも演奏会はオペラでも満席ですか?

◯荒谷先生

 オペラは大体そうでしょうな。私共もチケットを手に入れるのは容易ではなかったですから。

◯会場

 ウィーン・フィルハーモニーの定期は売り切れでしたか?

◯荒谷先生

 それはもう全部売り切れです。売り出しと同時に並んで買いに行かないと手に入りません。

◯会場

 他の指揮者ではそういうことはないんですか?

◯荒谷先生

 これは定期ですから定期券が売り切れになってしまうんです。だから客演が来ても同じです。

◯会場

 他に思い出になるようなことで、後、37年の12月にはウィーン国立歌劇場で「ワルキューレ」を演奏していますが、これはお聴きになっていますか?

◯荒谷先生

 これも聴いていますよ。この「ワルキューレ」も素晴らしかったですよ。この当時のドイツでやっている「リング」の演出というものが、今なくなってしまったんです。今は非常に抽象美だけで、簡潔にされて、だからワーグナーの演奏を聴きに行っても全然つまらない。私共、古いものはね。というのは何故かというと、音楽は変わらないんです、スコアは。舞台装置がみんな変わってくるものですから、やっぱり音楽と舞台装置が一緒でないと、ワーグナーの雰囲気が出てこないですよ。

◯会場

 今の演出はみんな変わってますから。

◯荒谷先生

 そうなんです。それともう一つは、日本でもワーグナーなんかもいろいろ演奏しますが、劇場がやっぱり響き過ぎる。向こうのオペラ劇場は本当にデッドですからね、全部絨毯ずくめの。オーケストラピットには80人ぐらいのオーケストラがワーグナーの場合には入ります。いや、100人近く入りますよ。そういうようなオーケストラでもって声が隅々まで通っていくような、やはりデッドでなくては本当の声が出てこないですね。そういう点でなんか日本でワーグナーを聴いても・・・。

◯会場

 やはり日本でワーグナーがレパートリーになるにはもうちょっと時間がかかるのでしょうか?

◯荒谷先生

 それで「リング」でもバイロイトでいろいろ演奏したのをテレビなんかで観ても何かフロックコート着て出てきたり(笑)、それはそれなりにいいところがあるのでしょうけれども、私のように古いものに接した者には何か物足りない。この時の「ワルキューレ」にテノールでフランツ・ヘルカー(Franz Völker 1899-1965 テノール)という人が歌っていますが、これが素晴らしいんですよ!

◯会場

  アンダイ(Rosette Anday 1903-77 メゾソプラノ)も歌っていますが如何でしたか?アンダイも名歌手でしたね。 

◯荒谷先生

アンダイも名歌手です。これは素晴らしかったです。

◯会場

 コネッツニィー(Anny Konetzni 1902-68 ソプラノ)も歌っていますが如何でしたか?

◯荒谷先生

 コネッツニィー、兄弟でね。これも素晴らしかったですよ。

◯会場

 フルトヴェングラーワーグナー演奏の特徴というのは先生、お聴きになってどうでしたか?

◯荒谷先生

 やっぱりああいう節回しでしょう。節回しとそれからぐっと来る盛り上がりでしょう。これがやっぱり違います。フルトヴェングラーのような指揮者はオペラは一番大事なとこではないですか。他の指揮者のように、ただ、こう割ってきちっと整理をするのではなくて、本当に歌一つ一つを生かして、楽譜を離れてもっていってしまうという。

◯会場

 フルトヴェングラーの受け止められ方というと、どちらかというとコンサート指揮者という印象がありますが、オペラ指揮者としても素晴らしかったということですか?

◯荒谷先生

 オペラの歌になったら独特のものが出てくるのではないですか。

◯会場

 後、37年(12月7-8日)にウィーン交響楽団ハイドンの「天地創造」を指揮して、エルナ・ベルガー(Erna Berger 1900-90 ソプラノ)が歌っていますが。

◯荒谷先生

 ええ、これも聴いています。エルナ・ベルガーもこの時初めてウィーンで聴いたんですが素晴らしいソプラノでした。ああいう人もこれからはちょっと出てこないんじゃないですか。

◯会場

 それから(コロマン・)フォン・パタキー(Koloman von Pataky 1896-1964 テノール)、ヘルベルト・アルゼン(Herbert Alsen 1906-78 バス)・・・。

◯荒谷先生

 アルゼンという人はあまり印象ないですね。パタキーとエルナ・ベルガーは非常に印象が強いですね。

 それと今のウィーンのもそうですが、ひとつ忘れていけないのは・・・ベルリンで、あっ、もう少し話を続けていいですか、この原稿のことで。

 それからさっきのテオドール・ベルガー(Theodor Berger 1905-92ウィーンの作曲家)の話がありましたが、テオドール・ベルガーが41年の11月です、ベルリンです、彼のバラード。これはゲッベルスの委嘱作品であまりにも強烈な現代音楽、当時としてはですね。そういうことで、演奏中、「止めろ」とか「続けろ」とか、もう怒号が飛び交って、聴衆自体が大騒ぎになりました。ですから、この演奏が、私なんかは若かったですから、素晴らしい名曲に聞こえた方なんです。

◯会場

 無調だったんですか?

◯荒谷先生

 無調だったと思います。何となく神経が逆撫でされるような気持ちになりました。

◯会場

 不協和音の連続ですか?

◯荒谷先生

 ええ、ありましたね。それからダイナミックが凄くて。そんな様なことで、こういうのがレコードで出ればいいなと思うけど、この雑音ではレコードになりませんね(笑)。こういう騒いだ演奏会というのは、私はベルリン・フィルを聴いて初めての経験でした。フルトヴェングラーも最後まで楽員と一緒に黙々として、素晴らしい演奏を続けていったと。これが大変印象に強く残っております。

 それからもう一つ面白かったのは、1942年頃だったと思うんですが、田伏さんの方に記録がないかと思いますが、ウィーン・フィルがベルリンに来て演奏したんです。この時、私が聴いた演奏が非常に強烈だったんです。というのは何故かと申しますと当時ベルリン・フィルばっかり聴いていましたから、それがパッと何年か後にウィーン・フィルが来てフルトヴェングラーが演奏したときの音の美しさ、華麗さ、華やかさというのか、これは本当にびっくりしました。

◯会場

 ベルリン・フィルと大分音が違うんですか?

◯荒谷先生

 違うんです!所謂、重苦しいああいった雰囲気とは違って、全く冴えた弦なんかが素晴らしい音でした。それで音楽が活き活きとしているというような、重苦しさよりもむしろ華麗さとかそういうものがありました。

(注3:この頃にウィーン・フィルがベルリンで演奏したという記録は残っていない。43年5月にフルトヴェングラーウィーン・フィルと共にコペンハーゲンストックホルムなどのスウェーデンの都市で演奏旅行をしている。その帰りにベルリンで演奏したという可能性はあるかもしれない。戦時中なので記録が抜けていることも考えられる。記録には5月17日の朝に「worker’s concert」、夜にもプログラムが違う公演があるが、どちらもオーケストラはベルリン・フィルで最後に皇帝円舞曲を演奏している。)

◯会場

 それはウィーン・フィル自身が持っている音なんですか?

◯荒谷先生

 そうです。

◯会場

 フルトヴェングラーがそういう音をオーケストラから引き出したということではないんですか?

◯荒谷先生

 いいや、違います。ウィーン・フィルはそういうオーケストラです。それでその時のもう一つの私の印象を思い出したんですが、アンコールに(ヨハン・シュトラウスの)「カイザーワルツ(皇帝円舞曲)」を演奏したんです。これが凄く雄大でシンフォニックな華麗なワルツで、これは今すっかり思い出してしまいましたよ。あれはちょっと聴かれなかったな。

それと私、もうひとつ田伏さんにお尋ねしたかったのはウィーン・フィルかどっかでモーツァルトの(交響曲)「第40番」とベートーヴェンの(交響曲)「第6番」を演奏したのがどこかにありませんでしたか。

◯会場

 37年までウィーンにいらしたんですか?

◯荒谷先生

 38年の春まで(ウィーンに)いましたから。定期演奏会ではなかったかもしれませんが、何か私、印象に強いです。何故かというと私は指揮法の勉強をしてましたから、フルトヴェングラーの真向かいで聴いていたんですよ。このバトンの動きを観るために。確か「第40番」と「第6番」だったと記憶しているんです。だからいつだったかなと思って、ちょっと思い出せないんですが。

(注4:第40番と第6番のプログラムが記録にあるのは38年11月のウィーン・フィルの演奏会。また、「響け北の大地に 荒谷正雄の遺業」にはウィーンを発ったのは38年夏とある。)

◯会場

 調べれば直ぐ判りますが。

◯荒谷先生

 後は思い出になるようなその程度で結構です。

◯会場

 ウィーン・フィルとのベートーヴェン「第九」をお聴きになってますね、37年11月。これ定期で演奏しているんですが、これフルトヴェングラーウィーン・フィル「第九」ベルリン・フィル「第九」とは違いますか?

◯荒谷先生

 違いますね。やっぱりウィーン・フィルの方がベルリン・フィルよりアカデミック。ラッサン(形式)がまず一つきちっとしている。ベルリン・フィルの方が彼の自由自在に動いてきますから柔軟性が全然違う。ウィーン・フィルの方がやや硬いきちっとしっかりした音です。

◯会場

 やはりフルトヴェングラーにとって完全に自由になるオーケストラはベルリン・フィルだったわけですね。

◯荒谷先生

 それはそうですよ。全然違いますよ。

◯会場

 ウィーン・フィルとはそこまでの関係ではなかったのですか?

◯荒谷先生

 ええ、まだ(ウィーン・フィルは)「したたか」という印象は受けましたね。所謂オーケストラの柔軟性から考えますとね。

◯会場

 ウィーン・フィルで演奏した方がフルトヴェングラーのレコードなんかを聴いてみましても形式性が凄く際立って聞こえるというか。

◯荒谷先生

 そうでしょう。アカデミックな構成的な面が。

◯会場

 構成的な面がウィーン・フィルの演奏の場合の方が強くてベルリン・フィルの場合の方がテンポも動かすし、ダイナミズムの幅も広いという印象があります。

◯荒谷先生

 確かにそうです。その通りです。

 それからもう一つ余談があります。よく「フルトメンクラウ(振ると面食らう)」と言うでしょう。これは非常にうまい日本語なんですが、ドイツ語ではないんですが(笑)。非常に難解な棒裁きをするというので定評があったんですが、特にフルトヴェングラーの場合には、この「出だし」の難しさ。「出だし」が最強音で始まる場合があるんです。全身の力を凄く蓄える、何ていうのか集中蓄えると言うんでしょうか、集中して蓄えるその「予動」が凄いんです、長いんです。そういうような「予動」をしているうちにオーケストラが段々、段々熱気が出てくるわけなんです。そしてそこにオーケストラが一斉にバァーとそこに入ってくるときの響きというものは全く凄まじいものでした。それが他の指揮者ではないものがありました。要するにそこでフルトヴェングラーが持ってくる力と、オーケストラ、それを待っている「阿吽」の呼吸というのでしょうか。それが一致したときの音というものはそれは凄いものです。これは出だしが分からないとかなんとかということではなく、そういうことがあるからなんです。そういうことを感じておりました。

 それと(フルトヴェングラーの)指揮が難しくて、こう震えるとか何とかということがありましたが、それは、直接指揮者に向かって座って指揮棒の(動きを)研究をしていたときに、彼の指揮というのは非常に細かく震えているように見えるんですが、それは震えではなくて、細かいリズムを分割しているということなんです。ここなんです!

 ですから、例えばスケルツォベートーヴェンスケルツォ、速い三拍子。一拍で上から一つ下へ降りますね。手首はリズムを三つ、四分音符を三つ振っているんです。タタタ/タタタ/タタタと全部振っているんです。それが結局、後ろから見ると全部震えているように見えるんです。それが正面から見ると完全に全部分割して振っている。またそれはオーケストラ(の楽員)がそれを一々見ているわけではなく、彼自身が全部体の中に音楽の持っているリズムというものを、彼自身が表現している、全部の器官を通して。だからそこで首が前後左右に振れたり、手が興奮してくるとリズムの刻みが凄くなってくる。手が震えるような形になって出てくる。体全体が、指揮をするのではなくて、我を忘れて彼自身が音楽の中に入ってしまっているんです。

◯会場

 そういうタイプの指揮者は他にもいましたか?

◯荒谷先生

 いないですよ。それはいない。私はまだお目に掛かったことはない。それが私は大変いい勉強になりました。そういうようなことが一つありました。小刻みな三拍子を分割して振っているということです。

 それからこれはまた余談で、それこそジョークなんだけど、フルトヴェングラーが指揮をする練習なんかを観ていても、本番でもそうですが、とにかく歌うんだ。歌うのはメロディーを歌うのではなくて口をすぼめて「チュッ、チュッ、チュッ、チュッ」と歌うんです。そうすると唾が飛ぶわけです(笑)。それが並大抵じゃないですから。熱中して演奏してますから、彼自身が。私のウィーン時代に指揮法を習っていた先生がウィーン・フィルの元メンバーだったんです。その人がよくフルトヴェングラーのそういうような話の一つとして、「今日がフルトヴェングラーの練習だ」と言うと「前に座るのなら傘を持って行け」と言うんですよ(笑)。そうしないと唾が飛んで敵わないというわけです。そんな様なジョークもありました。

◯会場

 フルトヴェングラー自身は夢中なんですか?

◯荒谷先生

 ええ、それは夢中です。つまりあの人は全部そういうことは意識していないということです。そういうことを意識してスタイルを作っている指揮者ではないということです。格好なんかどうだっていいんじゃないですか、ああなってくると。だってひどい格好して振りますから。だから曲なんか、例えば「エグモント序曲」の最後のところなんか、荒くなって足踏んで、こうですから、ステージの上で。そういう時がありますから、曲が高まってくると。普通のレコードの録音を聴いていても、フルトヴェングラーの実況録音というのがありますが、あれに「ドスン」という足踏みの音が入っているでしょう。結局、自分でもわからないで、そんなことはどうでもいい、ということになっているんじゃないのかな。自分を全部投げ出して音楽の中に入っていると。

◯会場

 それは聴衆がホールでフルトヴェングラー(の演奏)を聴いていてもわかりますか?

◯荒谷先生

 わかりますよ。「ドスン」と音がしますから。始まったということになりますよ。

◯会場

 そういう指揮者は他にもいましたか?

◯荒谷先生

 まあ、あまりいませんね。フルトヴェングラーは特にひどかったですね。そんなになりふり構わず指揮をする指揮者というのはそんなにいなかったんじゃないかなあ、その頃でも。(アルトゥーロ・)トスカニーニ(Arturo Toscanini 1867-1957)だってそんなに行儀悪くないですから。

◯会場

動きが少ない指揮者が多かったように思いますが。

◯荒谷先生

 だと思いますね。(トスカニーニは)そんな気違いみたいになってくる指揮者ではないです。トスカニーニは割合大振りの指揮者でした。というのはあの人は体が小さいから。凄いんですね、右旋回、左旋回でね、丸をこう描くんですよね、蝶になってくるとか。こっちが草臥れてくると今度は反対側(笑)、というようなことでこれは特徴がありましたね。あの人はチェロを弾くものだからカンタービレになるとこれが始まるんですよ。自分でこう(チェロ)を弾く真似をするんでよ。そういうのはいろいろ癖がありましたね。

 背中から観て一番美しい指揮をしていたのはブルーノ・ワルター(Bruno Walter 1876-1962)だ。これはもう惚れ惚れするぐらい美しかった、背中が。背中のこの線がね。本当に素晴らしい美しい線を出していましたね。

◯会場 

 エーリッヒ・クライバー(Erich Kleiber  1890-1956 カルロス・クライバーの父)はどうでしたか?

◯荒谷先生

 クライバーは私は見ておりません。この人は確か逃げた(アルゼンチンに移住した)後でした。近衛先生(近衛秀麿 このえひでまろ 1898-1973 指揮者、作曲家、総理大臣 近衛文麿の異母弟 元子爵)が大分、クライバーの下で習っていましたね。

◯会場

 ワーグナーを指揮できる指揮者というのがいなくなったような気がしますね、今。世界的にワーグナー指揮者というのがいなくなった、というのは、私がワーグナーが好きなので思うんですけれども。

◯荒谷先生

 それは本当にいないですね。というのはワーグナーのような長いフレーズがだんだんなくなってきていますから。

◯会場

 そうですね、そういう長いフレーズを自分の中の音楽としてというか、自分の中の息の長さと言うんでしょうか、そういうものを持っている指揮者がいなくなってきているということでしょうか。

◯荒谷先生

 いない。それから指揮者自身が一つのそういう自分の歌で指揮をするよりも、与えられた楽譜で、与えられた音で指揮をするという。そこのところが何か僕は立場が違うような気がする。だから楽譜第一主義、それを熟すだけというような。昔の時代の指揮者はそういうことよりも自分の歌を音楽にまず出して、そういったことを度外視して自分の歌をまず出していくということが、特にワーグナーなんかには極端に少なくなっているように思います。

◯会場

 そうですね。ワーグナーの場合には特にそういうことが要求されるということですね。

◯荒谷先生

 はい。

◯会場

 それから当時のフルトヴェングラーの演奏について、フルトヴェングラーファンはフルトヴェングラーの指揮技術とか作品に対する精神的に深い演奏によって、オーケストラの芸術水準が現在より高いとみている方が多いのですが、当時のフルトヴェングラーが指揮をしていた頃のオーケストラと、現在の指揮者、オーケストラとの比較について先生、如何お考えでしょうか。

◯荒谷先生

 それはさっき私もこの文章の中で申し上げたとおりなので、これからの時代に、例えばいろいろな指揮者が現れるとしても、当時の指揮者の中でもやはり他にいろいろと有名な指揮者がたくさんいたわけですから、その中でもフルトヴェングラーは一つの独自の世界を作っていたということが言えると思います。比較にならないような一つ飛び抜けているような指揮者でしたから。

ですからこれから後にフルトヴェングラーのような方が世界にまた現れて指揮をしたとしても、我々の想像する時代、文化というものがあの当時の戦中あるいは戦前の、十九世紀の終わりから二十世紀にかけての文化というものに戻れるかどうかという問題があります。

 やはり芸術、音楽の美というものはやはり時代と共に一つの美というものが、段々変わってきてますでしょう。求める方も違うし、人間自体が、育ちが変わってきているわけですから、その当時と。ですからその人たちによってフルトヴェングラーと同じようなことを求められるかというと、私は何ともお答えの仕様がない。非常に難解な質問なので何とも分かりませんですね。こういう天才や超人が現れて、それなりにやれば、またそういう時代が来るんでしょうけれども。それは大いに期待はしたいですけれども、果たしてどうなるかそれはちょっとこれからの疑問ですね。

◯会場

 それからベルリン・フィルの演奏技術は大戦末期に演奏家が兵隊に採られたためにレベルが落ちてきている、ということが指摘されているんですが、それは録音によっても40年の最初の頃と44年頃と録音でもちょっと判るようなところがあるんですが、実際、先生お聴きになって如何でしたか?

◯荒谷先生

 それはあります。というよりはプレーヤーの技術が落ちたとか何とかという問題じゃなくて、戦争という一つの現実だろうと思います。ですから戦争という現実からプレーヤー自体も、そしてフルトヴェングラー自身も、そういった戦争の中の生活を余儀なくしていかなくてはならない、ということから感情的にも平常の時とは違うわけですね。そういった時にやはり一つの音楽だけをプレイ(演奏)していくという上では、やはり人間ですから、だからそこは僕はフルトヴェングラーは当たり前だと思っている。ベルリン・フィルの楽員も。

 これがもし全部いつも同じものだったらおかしいじゃないかと思うんですよ、逆に。そういった状態でそういうような演奏をする。例えば、(ベートーヴェンの)「第7番」にしても普段の演奏より以上に、もの凄い白熱的な演奏をしていましたよ、フルトヴェングラーは。だけどそれは緻密に聴いていればミスが多いかもしれない。ミスという点では、細かいところは。でもそんなこと問題じゃないですよ、音楽聴きに行っている場合には。結局、一つのミスを考えて、あれがこうだったああだったというのはドイツ人には通用しない。それは他の国には通用するかもしれないけど、ドイツ人には通用しない。

 とにかくその時の会場で、そしてそのフルトヴェングラー自身の熱気、(オーケストラの)プレーヤー自身の燃えるような熱気、それがベートーヴェンなどの音楽を創っていったわけです。ですからその中でフルトヴェングラーが凄く強引な指揮をその日に限って演奏するかもしれない。そういうことあるでしょう、音楽家ですから。それによって若干ズレが出てきてオーケストラが付いていけない場合が出てくることがあるかもしれない。そういうことはしょっちゅうありますよ。フルトヴェングラーなんかはアッチェレランド(accel.)を凄く付ける人ですから、テンポを動かすことは平気でやりますよ。それが、ベルリン・フィルというのはそれが自由に動くオーケストラなんです。それがいつでも機械のように動いていたらこれは音楽がつまらないですよ。そこで若干のズレを伴いながら皆、息せき切って演奏をしてくるというところに音楽の面白さがある。魅力があるのではないですか。だから、ウィーン・フィルも先程話がありましたが、ベルリンで戦争中に聴いた頃よりは、前(ウィーン滞在中)に聴いたときの方がよっぽど整然としていた。綺麗な音をしておりました。それは当然です。

◯会場

 演奏の技術が落ちたということではないんですか?

◯荒谷先生

 技術という問題ではないと思います。これは全部ひっくるめた問題なんですね。

◯会場

 それから先生がベルリンに長いこと滞在されている間に、滞在された日本人としての立場からお訊きしたいのですが、フルトヴェングラーがナチ政権下、ドイツに留まったことについて、日本ではいろいろと外国から記事が紹介されておりますが、当時ベルリンに長く滞在された先生から、フルトヴェングラーがベルリンに留まった印象か何か、もしお持ちであればお聞きしたい。というのはフルトヴェングラーとドイツ人との心の結びつきから、フルトヴェングラーは到底ドイツから去る人ではないということが言われておりますが、日本人の立場から先生、如何お考えでしょうか?

◯荒谷先生

 それはもうドイツ人と全く同じです。フルトヴェングラーはやっぱり戦時中ずっとドイツに居て演奏を続けていたことはドイツ国民の救いでしたよ。我々も皆そうでした。これが普通の人であればあるいは何処かに行ったかもしれません。もっと良い条件でいろいろ迎えられるところがあれば行ったでしょう。

でも彼はやっぱり残っていた。自分がやっぱりドイツ人だからではないですか。そこで彼の音楽の分かれ目が出てくるわけです。普通の指揮者であればより良い条件でより良い生活で全ての面で自分の音楽をどんどん磨いていきますが、彼はそういうことを振り切って、自分はドイツ人だとドイツの国民と運命を共にするということで最後まで残ったわけでしょう。それはやっぱり演奏の面で出てきますよ、その燃える気持ちは。

 だからそれによってドイツ人は救われておりましたよ、本当に、あの音楽を聴いているだけで。それはどんな政治家が偉いこと言ったってもう信じないですからね。音楽は本当に心の自由と信仰になってましたよ、ドイツ人には。

◯会場

 次に1942年ベルリン・フィル定期演奏会で10月にブルックナー交響曲「第5番」をお聴きになっているんですが、この時の演奏とそれから特に有名なティンパニの演奏について、先生、覚えていらっしゃるんでお訊きしたいと思いますが?

◯荒谷先生

 覚えていると言いましても、誰がどういう名前の方がティンパニを打っていたかというのはちょっと名前を覚えていないんですね。ただ何となく骨格からいってこう拝見していて、相当年配の人で、体の凄く大きな、頭の禿げ上がったいかにも堂々とした、フルトヴェングラーに向かってもけっして臆しないような、堂々とした体格でティンパニを打っていました。この人がティンパニを打つとほとんどオーケストラの音が聞こえなくなるぐらい大きな音を出すんですね。というのは特徴として彼のトレモロ(tremolo)のクレッシェンド(cresc.)、これが普通のティンパニストでは出来ないような凄い効果を持った急激に来るクレッシェンドを使うんですね。ということは彼がいかに腕力、バチ(マレット)を打つ力が訓練されていたかということがよく判りました。それと同時にその日の音楽ですね。あっ、今のレーンですか?

◯会場

 1944年の1月定期演奏会ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」をレーンのソロで、録音がありますが如何でしたか?

◯荒谷先生

 これは私、実際、聴いておりました。そのレーンという人はボリースの後に、一時コンサートマスターであった人なんですね。まだ若い人で素直なヴァイオリンであまり灰汁の強くない非常に正当なベートーヴェン演奏ではなかったかと思います。レコードでも出ておりますね、確かポリドールレコードから。非常にそういった意味で、何て言うのか、当時のアカデミックな一つのベートーヴェンスタイルというものをはっきり表したようなあまり外連のない非常に良い演奏だったと思います。

◯会場

 それから1943年の2月には珍しいシベリウス交響詩「伝説(エン・サガ)」、それから「ヴァイオリン協奏曲」、(ゲオルグ・)クーレンカンプ(Georg Kulenkampff 1898-1948)の独奏でシベリウスを演奏しているのですが、ご記憶はありますか?

◯荒谷先生

 ありますけれども、聴いた覚えはありますけれども、あまり今、強い印象は残っておりません。ただクーレンカンプのヴァイオリンが凄く冴えていて、そしてシベリウスカデンツァ(cadenza)とかなんかが凄い意気込みで演奏していたのは衣までも覚えています。クーレンカンプという人は当時のドイツきってのヴァイオリン奏者ですから、そういう点ではコンチェルトを弾かせたら大したものだったんです。

この人はシベリウスの前にシューマン(のヴァイオリン協奏曲)で相当、当時鳴らした人で、シューマンのコンチェルトを世界で初めて演奏した人です。これはオリジナルと違うんです、楽譜が。クーレンカンプ自身か誰か知りませんが、ちょっと手を入れています。それで非常に地味な曲をより華やかにしています。それでこれなんか今、当時の資料が残っていれば誰か演奏したらいい曲になるんじゃないですか。今、シューマンがやはりあまり演奏されませんからね。演奏不可能のようなところがありますからね、シューマンには。それで結局、シューマンはヴァイオリンを効果的に使うことを知りませんから。それでクーレンカンプの弾いた演奏は(オリジナルの楽譜に)手を入れて、書き加えて非常に華やかにして、いい演奏だったのを覚えております。

◯会場

 それと後、ブラームスのピアノ協奏曲について、「第2番」ですが。これは独奏にエトヴィン・フィッシャー(Edwin Fischer 1886- 1960)とアドリアン・エッシュバッヒャー(Adrian Äschbacher 1912- 2002)の二人が定期演奏会に出ています。これについては如何ですか。

◯荒谷先生

 フィッシャーについて強く印象に残っております。フィッシャーのブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」ですね。やはり何というのか田園的な「第2番」というのはフィッシャーのようなロマンティックなピアニストにとって非常にいい曲です。それで私、フィッシャーと同時にもう一人、(ヴァルター・)ギーゼキング(Walter Gieseking, 1895-1956)。普通、ソリストが出てきますとフルトヴェングラーの場合にはソリストが小さく見えるんですよ。体つきだけではなくて、音楽、それからなんか全体から受ける雰囲気がね、なんかフルトヴェングラーからソリストが見下ろされているような感じをちょっと受けるんです。それが全然受けないで、むしろ敬服するような演奏家だと思った、この二人は。ギーゼキングとエトヴィン・フィッシャー。この時のブラームスのビアノ協奏曲「第2番」は素晴らしいものでした。要するに雄大なスケールでね。

◯会場

 録音も残っていますね。

◯荒谷先生

 ええ、残っていますね。それからギーゼキングシューマン(のピアノ協奏曲)。

◯会場

 暗い演奏に聞こえるんですけど。

◯荒谷先生

あれはもうベルリン・フィルの音ですよ。あれはウィーン・フィルのオーケストラの音ではありません、絶対。

◯会場

 1942年の5月、シューマンの「ピアノ協奏曲」を(アルフレッド・)コルトー(Alfred Cortot 1877-1962)が定期演奏会で演奏していますが、これについては如何ですか?

◯荒谷先生

 ええ、コルトー来てましたよ、ベルリンに。ただ、僕はあんまりコルトーの印象は残ってません。というのは何というのか、あんまり大きな感じを受けなかったですね、コルトーは。ああいう神経質な人ですしね。だからなんかドイツ的なオーケストラの中に入ってしまうと本当なんかコルトーの音楽がパァーと出てくるような強い印象は持てなかった。

 むしろコルトーの印象を受けたのはウィーン・フィルですよ。ウィーン・フィルショパンのコンチェルトを弾いたときは感心した、コルトーには。これはコルトー以外ないです。別な指揮者が振っていましたけどね。ベルリンでのコンサートではコルトーの持っている音楽の質とベルリン・フィルフルトヴェングラーの音楽の質がちょっと違うような感じがしました。

◯会場

 コルトーフルトヴェングラーは割合に精神的に近かったと言われていますけれども。

◯荒谷先生

 そうでしょう、そうだったと思いますよ。ただ音楽的にコルトーの場合は先のフィッシャーやギーゼキングの様な場合とは音の個性が違いますから。

◯会場

 次に1939年の5月にベルリンの演奏会でフルトヴェングラー指揮のバッハの「マタイ受難曲」を先生、お聴きになっているそうですが、この時の印象は如何ですか?これは独唱者にはヘレーネ・ファルニ(Helene Fahrni 1901-85 ソプラノ)、マルタ・ローズ(Marta Rohs 1909-63 メゾソプラノ)、カール・エルプ(Karl Erb 1877-1958 テノール)、ルドルフ・ヴァツケ(Rudolf Watzke 1892-1972 バス)、フリードリッヒ・メイヤー(Friedrich Meyer)、ブルーノ・キッテルコーラス(合唱団 Bruno Kittel 1870-1948 ドイツの合唱指揮者)なんですが。

(注5:「フリードリッヒ・メイヤー(Friedrich Meyer)」について、1990年に出版されたジョン・ハント(John・Hunt)のディスコブクラフィ(The Furtwängler sound)第3版には「Meyer」という名前が歌手として出てくるが、第6版には「Meyer」という名前がない。また「Friedrich Meyer」という歌手は検索しても出てこないので何かの間違いだった可能性もある。)

◯荒谷先生

 歌手の名前までは覚えてません。ただ「マテウス・パッション(マタイ受難曲)」の印象というのは、フルトヴェングラーのバッハというのは「マテウス・パッション」に限らず非常にロマンティックというか今で言うバロックとは全然違います。非常に歌自体が主体になってオーケストラの音も今のようなバロックではなくてもっとやわらかくシンフォニー的に流れてくる響きを創っていくという、そういうような「マテウス・パッション」でした。特に宗教的な何とかというよりはやはりロマンティック音楽に近い彼の音楽の流れだと思います。

 バッハとかあの人はヘンデル何かもよく演奏していますが、やはりみんな凄い響きですね。今の時代から推してみるとあの頃は今のバロックというのは考えられなかったんです、私共は、ヘンデルでも何でも。第一チェンバロの音なんて聴ける時代ではなかったんですから、あの頃は。ですから結局、そういった大きなオーケストラで演奏する響きというものしか聴けなかったということですね。それなりに素晴らしいものであったということは確かですね。

◯会場

 それからベルリン・フィル定期演奏会フルトヴェングラーはよく自分でピアノのソロを弾きながら指揮をするというのを何回か演奏していますが、先生お聴きになって如何でしたか?

◯荒谷先生

 「ブランデンブルク(協奏曲)第5番」なんか時々演奏してました。いわゆるピアニストが弾くピアノではないです。いわゆる指揮者が弾くピアノですね。非常にやわらかくて響きを非常に大切にしてました。

◯会場

 非常にタッチが滑らかだったんですか?

◯荒谷先生

 滑らかでした。ですから非常にやわらかいんです。

◯会場

 ピアニストが羨ましくなるような演奏でしたか?

◯荒谷先生

 そうそう。ピアニストが演奏するいわゆる硬い、ああいうメカニズムは出てこない。非常にやわらかいソフトなタッチで全体の音楽をふんわり包んでいくという。やっぱり流石に指揮者ですよ。やっぱり自分のピアノの響きで他のパートを全部包んでいるという感じを非常に受けました。それは見事なものでしたよ。一つのそういうムードをちゃんと創っていますね。

◯会場

 ソリストとなった場合にはまた別なんですか?

◯荒谷先生

 (フルトヴェングラーが)コンチェルトの独奏者としてですか。おそらくフルトヴェングラーのピアノはそんなに強いタッチの、いわゆる職業的なピアニストの訓練ではないと思いますよね。

◯会場

 バッハとかモーツァルトのピアノ協奏曲ではどうでしたか?

◯荒谷先生

 はい、自分で演奏してます、ありました。その点では今のピアニストが指揮者になって指揮をしながら自分で演奏する演奏家がいますが、そういうのとも違うんです。

指揮者が独奏者の役をやって演奏するんですから、弾いているピアノ自体の音というのはやっぱり非常にソフトでピアニスティックではない。それだけに音楽的にもっと別な魅力的なものが出てくるということも考えられますね。

◯会場

 本日は、とても興味深いお話をお伺いできて本当にありがとうございます。一素人ファンとして、先生の貴重なお話を伺える機会を持てたことを、とても幸せなことだと思うんですけれども、日頃からフルトヴェングラーを聴きながら、疑問と言いますか、気に掛かっていることがいくつかありまして、その点、非常にフルトヴェングラーをたくさん直に聴かれた先生に伺える機会を利用して、先生に是非お伺いしたいことがありますので、ちょっとこの機会を利用してということで。

 一つはフルトヴェングラーの演奏様式、というと少し大げさですが、フルトヴェングラーの演奏、再現芸術家としてのフルトヴェングラーの演奏の本質と言いますか、確信というのはどこにあったのかという問題で、一つは日本でよく言われるときにフルトヴェングラーの演奏はいわゆる19世紀的なロマンティシズムの演奏であるという言い方がよくされますけれども、確かにそういう面も否定できないと思うんですが、同時にフルトヴェングラーの中にあるというか、インテレクチュアル(知性)であるとかそういう要素もあるのではないかと、かれこれフルトヴェングラーの演奏を聴いておりまして、しているのですが、もちろん今日(こんにち)言う意味での、メカニカルな意味でのインテレクチュアリズム主知主義)ではないと思うんですけれども、フルトヴェングラーの中には非常に知的な要素というのはあるのではないか。その辺でも実は同じ時代の(ウィレム・)メンゲルベルク(Willem Mengerberg  1871-1951)とか(ハンス・)クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch  1888-1965)とかという指揮者とは違った面を持っていたように思うんですけれども、その辺、お聴きになって先生、どうお考えになっているのかお話を伺えればと思うんですが。

◯荒谷先生

 なかなか難しい質問が出てきました。それでやっぱりフルトヴェングラーの音楽が19世紀的、20世紀的というお話がありましたけれども、フルトヴェングラー自身は20世紀の新しい音楽を随分初演しておりますよ。そういう意味ではメンゲルベルクとかクナッパーツブッシュとは大分世界が違っていたんではないかと思います。

 それからフルトヴェングラーの持っているいわゆる19世紀的なロマンティシズム(romanticism)というのは、私はむしろ19世紀的なロマンティシズムというよりはフルトヴェングラー自身がその作品に抱いている一つの思想ではないかと思います。ですからそれは彼の持っているロマンティシズムではなくて、要するに彼が作品から与えられてくる一つのロマンティシズムがある。

彼自身は20世紀的な一つの知性を持って哲学的に全てをいろいろ考察してやっていても作品の持っている一つのロマンス(romance)、これを直ぐ引き出すんですね。これ指揮者によって引き出せない指揮者がたくさんいるんです(笑)。例えばブラームスを演奏しても、ベートーヴェンももちろんクラシック(古典派)ですから、ロマンス性の前の問題。だけどベートーヴェンの中に、精神の中に持っているロマンス性、これをやはりフルトヴェングラーは引き出すんですよ。それをちゃんと引き出してくれる。というのは彼自身が常にそういうものに、こう自分の自我を棄てて、そして作品の中に彼自身が生きているのではないかと思います。それで一つの歌を、十分歌い尽くしたときに、そこに一つの知性を持って構成をきちっ、きちっと楔を打っていくと。そこが19世紀的なロマンティシズムに流れていくということとは、ちょっと違いがあるんです、客観性がある。

◯会場

 客観性がフルトヴェングラーの演奏にはあるような気がするんですが。

◯荒谷先生

 僕はあると思います。彼自身に流れている歌というのは、これフルトヴェングラーの歌ではないと思うんだ、僕は。普通のよく指揮者が何々節とか言いますが、フルトヴェングラー節というのはありますか?ないでしょう。

◯会場

 ないですね。

◯荒谷先生

 おそらくないと思う。他の指揮者はあれは何節だ、何節だなんてよく冗談で言いますが、フルトヴェングラーの場合は何節だと言えるような次元ではないわけだ。それとは何か別な世界なんだ。それは歌とか何とかに表せない一つの世界があるわけなんですね。それがいわゆる19世紀的な、もしロマンティシズムと言うのであれば、それは敢えて言われても仕方がない。だけども一般的に言われている19世紀的ないわゆる歌のそういったこととは違うのではないかと思います。

◯会場

 それから思い出したんですが、1941年12月にモーツァルトのレクイエムをベルリン・フィル定期演奏会で演奏しているのですがこれは如何でしたか?

◯荒谷先生

 これはもう実に、もうこれ以後こういう曲を聴くことはもうない、それほど真に迫っていた、この時の演奏は。だから僕はモーツァルトのレクイエムはもう今この後、いろいろな演奏が出てきても、どれを聴いてもみんな申し訳ないけれどもピンと来ないですね。この時のフルトヴェングラーのあの深い思想ですね。もう歌の一つ一つの中に食い込んでくるような、あれはもうちょっと今、聴けないな。

◯会場

 ロマンティックな演奏だったんですか?

◯荒谷先生

 もうそんなものではないですよ!もっと深いものです精神的な。

◯会場

 モーツァルトの晩年の死期に近づいたものですか?

◯荒谷先生

 そう。晩年のもっと精神的な深い境地、これが凄く出ていたんですよ。

◯会場

 それだけ表現できる指揮者は他にもいましたか?

◯荒谷先生

 いやいや、いない、いない、それはいないですよ。モーツァルトの歌は皆、演奏しますよ、綺麗に。だけど歌と関係ない、その音楽は。全然別次元なんです。

◯会場

 だけど先生、フルトヴェングラーベートーヴェンは誰もが評価しますけれども、フルトヴェングラーモーツァルトというのは意外にわかっていない方が多いんですが、そのフルトヴェングラーベートーヴェンに対してとは別にモーツァルトに対しての思想というものがここに出ているわけですね。

◯荒谷先生

 そうです、出てます。深いものの考え方、思索するあれ(知性?)がね。やはりモーツァルトというのは割合、今でも何か表面的な、いわゆるモーツァルタリア(MozartとAriaの造語か?モーツァルト風の軽妙な歌いまわしのことか?)というのがあるでしょう。私なんかモーツァルトはそうじゃないと思っていますから。もっと深いものです。それであの年齢であれだけの深さの音楽に到達したんですから、天才という以外にないでしょう。「ジュピター(モーツァルト交響曲第41番)」聴けばわかりますよ、あれだけの構成美、それから終楽章の深さ、フーガ。そういう点では、フルトヴェングラーの「レクイエム」は、あの時は本当に頭下がって帰ってきたな。

◯会場

 これは満員だったんですか?

◯荒谷先生

 もちろん満員ですよ。

◯会場

 大変な演奏だったんですね。

◯荒谷先生

 それは素晴らしい演奏です。深い演奏でしたよ。本当に深いものでした。

◯会場

 ベートーヴェンの「交響曲第9番」を聴いたようなものでしたか?

◯荒谷先生

 それとは全然違います。逆に言えばもっと深いんじゃないかな。それはモーツァルトの方が深いです、ずっと。底知れずのような深さを持っています。あの音楽の一つ一つのこう刻み込んでくる出だしからのリズムの中に。あのリズムの一つ一つが生きてくるわけですよ。それはやっぱり格が違いますよ、そういう点は。

◯会場

 先生からフルトヴェングラーモーツァルトについて、これだけお話をうかがえたというのは大変貴重でした。他の方々からは伺ったことなかったんです。皆、ベートーヴェンの演奏のことばかり言うんです。

◯荒谷先生

 あの「ドン・ジョヴァンニ」だってそうでしょう。あのオーバーテュア(overture 序曲)の出だしの付点のついた四分音符からタータッタ、タータッタというああいう思い深く入ってくるような音で普通のとはちょっと違う世界でしたね。

◯会場

 当時の独唱者がわかってますけど。

◯荒谷先生

 当時の独唱者までは覚えていません。どなたでしたか?

◯会場

 ヨーゼフ・グラインドル(Josef Greindl 1912-93)、(トルーデ・)アイッペルレ(Trude Eipperle 1908-1997)、ヴァルター・ルードヴィッヒ(Walther Ludwig 1902-81)。

◯荒谷先生

 ああ、素晴らしい歌手たちでした。だからあの時聴いて一番に思ったのは、モーツァルトが途中で(作曲を)止めたでしょう。他の人がその後を作曲したでしょう。(その箇所が)はっきり判った。その違いがはっきり判った。

◯会場

 (感嘆するように)ああーそうですか。今の指揮者では判らないですか?

◯荒谷先生

 判らない、判らない。どこで変わったなんて判らないですよ。あの時は「あっ、変わったな」ということで(他の人かその後を作曲したことを)知らずにいて、聴いていて何となく感じました。モーツァルトのファンの方はフルトヴェングラーの演奏をもう一つ見直して聴いて欲しいですな(笑)。

 それと彼の「交響曲第40番」。凄いですよ。あの緊迫感、出だしの。あれを私は目の前で聴いていましたから。あれは凄かったです。あれはもうああいう演奏はもうないでしょう。あれだけ寂寥感、緊迫感。やるせない、燃えているような、出だしからカーッと押してくるでしょう。ああいうことは(他の指揮者の演奏では)全然ないですね。

◯会場

 フルトヴェングラーが、あまりテンポを動かさないとか形を動かさないで、その中で悩みとか、心の痛切な悲しみとかを表しきれるというのは「天才」でもあるからなんですか?

◯荒谷先生

 それが「知性」なんですよ。

◯会場

 今はそれがないんですか?

◯荒谷先生

 それがフルトヴェングラーのあの時代に言われたネオ・ロマンティシズム。要するにただロマンティックに流されていかない。「知性」でもってそれをきちっと整理して、そしてそこの「知性」の中に、哲学とかいろいろな彼自身の持っているインテリジェント(intelligent)的なものが無意識に音楽を創っていくのではないですか。

◯会場

 それがフルトヴェングラーの持っている「内的論理」というものなのですね。

◯荒谷先生

 それは確かにそうですが、それが論理であるといって形のあるもので表さない。彼自身が「本能」として持っているところに彼の音楽の「尊さ」があるんだなあ。これが「方程式」になったらもうだめでしょう。

◯会場

 「方程式」としての論理ではないですね。そこが再現芸術家としてのフルトヴェングラーの高さですか?

◯荒谷先生

 そうですねえ。抜群な境地ではないでしょうか。

◯会場

 普通に言われる「客観的演奏」以上に、実は「忠実な客観性」であるともいえるわけですね。

◯荒谷先生

 そうなんです。作品に対するね。

 

◯会場

 このようにして荒谷先生が御苦労をされてベルリンでフルトヴェングラーの演奏を聴かれた後、日本へお帰りになる訳なんですが、今の方には御想像できない御苦労をなさって日本へお帰りになったわけです。これを理解していただくために先生の日本へお帰りになるまでの御苦労話をお聞かせいただければと思います。

◯荒谷先生

 そうですね、当時は大変な苦労だったんですが、今にして考えれば昔の話で、私が帰ってきたのは1945年。自分の故郷に着いたのは7月の初めでした。ドイツを出たのが5月ぐらいに出たんですね。ちょうどナチス政権が崩壊して、そしてすっかり変わって、そして誰が次になるかということで、ラジオをしょっちゅう聞きながら居ました。私たちはちょうどその頃、ライプツィッヒの近所にマールスドルフというお城がありまして、そこを領事官と一緒にヨーロッパ中の邦人が皆、集まったものですから、大体130人位おりました。そこで皆、籠城して領事館員以下集まっていました。それで籠城と言いましても何もないところですから、結局、お城の中にベッドから何から作らなくてはならない。食料も蓄えなければならない。そんなようなことで我々日本人が全部集まって、それぞれ各部署に分れて籠城の準備を始めたわけですね。そんなことでそこにしばらく居りました。

◯会場

 その時、そこで近衛先生(近衛秀麿)とお会いになったんですか?

◯荒谷先生

 そこで会ったんです。そこで私は籠城して、そこのお城の中にいる頃、たまたま近衛先生が車でやって来まして、「これから君、一緒に逃げないか」と誘われたんですね。「とてもそんな逃げるような時代ではない」と今は。とにかく向こうへ行ったら捕まるのを承知で行くわけですから。私共の籠城していた地区というのは、エルベ川という川を境にして、その西にはおそらく連合軍(英米軍)が来るだろう。東はおそらくソ連軍が来るだろうと。ソ連軍はまだ日本とは戦争をしていない、まだ平和状態。だから領事官として我々日本人は全部東側の方へ残ろうと。だけど何かあったときにはすぐ西側にも行けるように、ということで非常に川の割合近くに居たわけです。そこへ近衛さんが訪ねてきて、近衛さんはこれから脱走しようというわけですね。ベルリンへ脱出して、それで私の所へ寄っていきまして、「行かないか」と言うから、僕は「それは止めた方がいい」と、戦況も目に見えているし、片一方、アメリカの方は日本と交戦状態でしょう。わざわざ捕虜になりに行くようなものですよ。それは止めた方がいいんじゃないかと。だけどあの人はどうしても「いや、俺は行く」と言って、単身、車で行ってしまったんですよ。それで僕は「どうしてもそれは止めた方がいい」ということで行かなかったです。

◯会場

 止めたんですか?

◯荒谷先生

 私は止めました。私自身は動かなかったです。とんでもないところに行ってしまいますよ。

◯会場

 一緒に行った日本人は他にはいなかったんですか?

◯荒谷先生

 誰もいないですよ。あの人しかいないでしょう。こんな所に車に乗ってやって来たのは。こちらはもう領事官以下、全部居ますから。きちっとまとまった組織で運営してましたから。日本人皆で部署を決めて、何々班、何々班なんて決めて運営しているわけですね。そして今も皆さん著名な方々が当時、居りましたから、皆一緒だというわけでしょう。それで結局、彼は行ってしまう。だから後で捕まってしまったんです。

それで私共はソ連の護衛で城を守ってもらっていたわけです。戦争は終わってましたから、どこで何が起こるかわからない。ドイツの兵隊もどこに居るかわかりませんから、戦争が終わってますから。ですからそういうときもソ連の兵隊さんが守ってくれましたから、我々は城の中に居ると。

それで結局いよいよ今度はソ連の方が動く事態になったんじゃないですか。私共は知らないけれども。いわゆる日本との関係で。これで出発しなくてはならないと。2時間で城を立ち退いてトラックに乗ってくれ、というわけで着の身着のままで行ったわけです。

 それからベルリンに連れて行かれた。ベルリンに行ったんです。その時のベルリンで今でも強い印象があるんです。もうそれこそ瓦礫の廃墟。煙がボウボウ立っているだけ。そこをトラックで焼け野原をずぅーっと走って行ったんです。その中で私が聞いたのが、今でも忘れられないのが「フィデリオ」の音楽ですよ、街頭放送で。「フィデリオ」の音楽を流していたんです。

◯会場

 序曲ですか?

◯荒谷先生

 序曲です。いや序曲か全曲だったか。

◯会場

 誰の演奏ですか?

◯荒谷先生

 それはわかりません。街頭放送です。そしてそこにドイツ人がボロボロの服を着て、焼け残りですよ。若い人はもう居ませんでしょう。おじいちゃん、おばあちゃんですよ。本当にそれこそ焼け野原でベンチに腰掛けて、その「フィデリオ」を聴いているわけなんだなあ。あの時の後継は未だに忘れられない。だからドイツはやっぱり音楽だなあと思ったな。

◯会場 

 それは5月ですか?

◯荒谷先生

 ええ、5月の中頃ですね。ドイツが降伏した後です。

◯会場

 もうソ連が占領しているわけですね。

◯荒谷先生

 もちろんそうです。占領して私たちが連れて行かれたわけです。そして、トラックでずっと乗せられてベルリンから汽車に乗ったわけですね。

◯会場

 よく動いていましたね。

◯荒谷先生

 ですから下の方(南の方)をずっと迂回して行くわけです。そしてモスコウ(モスクワ)まで出て行くわけです。途中線路がやられていますから。

◯会場

 モスクワもかなり戦災の被害があったんですか?

◯荒谷先生

 いや全然わかりません。私共は汽車から一歩も出られませんから。カーテンを下ろしたまま。

◯会場

 外は見せないんですか?

◯荒谷先生

 絶対見せない。駅に降りただけでも面倒なことになりますから。水か何かもらうために降りて酷い目に遭ったことがありますからね。

◯会場

 何で見せないんですか?

◯荒谷先生

 やっぱりそれは戦時中ですよ。絶対見せません。そしてモスコウに行って、モスコウで一晩ぐらい居たのかなあ、汽車の中で。その次に今度はどこに行くのかわからないんですよ、とにかく。行き先がわからないですから。どこへ行くのだろうと言っていたらどうもシベリアらしいと。そしてシベリア鉄道を通って満州国境へ入ってきたんですよ。この時も窓は全部閉めっぱなし。だけど100人以上一緒になって乗ってましたから、日本人同士ですから心強いですよ。だから近衛さんが一人で行かれたというので心配してねえ(笑)。彼は彼で一流の頑固さですよね。そして初め新京(しんきょう)に着いた。満州里(まんしゅうり)からね。そしてハルピンに一晩汽車の中で泊まって、それから新京から羅津(らしん)に行って羅津から船に乗って敦賀に入ったんですよ。この時がまた狭くてねえ。夏ですけどねえ7月ですから。我々いつ飛び込んでもいいように全部有る物を着てくれと言われました。

◯会場

 着るんですか?

◯荒谷先生

 水中に飛び込んだ時の準備。何秒間と保たないですから水が冷たくて。大体5秒だろうと言われていた、入ったら。とにかく有る物はみんな着た方がいいということでね。

◯会場

 重くなってしまいますね。

◯荒谷先生

 それは重いなんて問題じゃないですよ。それこそノミかシラミに化けるようなものですよ。着る物全部着て。シベリア鉄道だって一等や二等じゃないですからね。三等か四等か知らないけど木のベッドですからね。三段ベッドぐらいなっているわけでしょう。まあ新京に着いてあそこはまだ戦争になっていませんでしたから、満州ですから、そこで一息ついて、そして羅津から乗ってきたんです。結局、途中で空襲を受けたり、魚雷に追いかけられたり、それから敦賀に入るとき魚雷を避けるため他の船にぶつかったり、まあいろいろな目に遭いました。

◯会場

 日本に帰らないで、日本人でベルリンやドイツに留まった方もいるんです?

◯荒谷先生

 何人かいるでしょう。

◯会場

 それはどういう方なんでしょうか?

◯荒谷先生

 向こうで仕事をしていた人。あるいはドイツ人の奥さんを持っていた人。そういった人がおそらく二、三人は居たんじゃないかな。

◯会場

 (居た人が)なんか本を書かれています。地下壕に入っていたらソ連軍が入ってきたと。それで「出てこい」と言われて・・・。

◯荒谷先生

 おそらくそうでしょう。それは居たはずです。我々の方に来ていなかった人で知っている方がいますから。

◯会場

 それは特別な人しか居られなかったんですか?皆、帰されたんではないんですか?

◯荒谷先生

 結局、残る人は自分の責任で自分の身を守れということです。

◯会場

 自由に残ろうと思えば残れたわけですか?

◯荒谷先生

 それは残っていた人が居るわけですから、現に。集まれと言っても来ないわけですから。

◯会場

 身の危険はわからないわけですか?

◯荒谷先生

 それは自分で守らなければならない。ま、そういうようなことで日本に着いたら敦賀で汽車に乗るのも大変でね。窓に皆、放り込んでもらうような汽車ですから。窓なんて付いている客車はなかったですからあの頃。貨車と同じようなものですよ。それで窓から乗るのに後ろから押して放り込んでもらってやっと乗ったんです。まあそんなような時代を飛び越えて来たわけですけどね。

◯会場

 では、今日はいろいろと長いこと先生には貴重なお話を伺いまして本当にありがとうございました。

◯荒谷先生

 どうも長い間、いろいろとなんか私の思い出すのにも、取り留めのない話ばかりでなんか恐縮しております。皆さん、これからフルトヴェングラーの音楽、いわゆる何と言うのかな、音楽というのは形に表れるとか、音にこうやって、こうやって出すものだというのではなくて、本当に心と心のふれあいを彼(フルトヴェングラー)が媒介して結び付けてくれるというところに、本当のフルトヴェングラーの、いわゆる音楽の強さとか弱さとか、そういうものを通り越した、無限大の何か言うに言われない一つの繋がりがあるのではないか、ということを、これからますますお若い方たちに、それを一つ胸に留めていただいて、音楽を聴いていただくと精神的な一つの豊かな生活が送れるのではないかと、これは私から望んで止まない次第でございます。

 それでは皆さん、さようなら。お元気で。

 

 

故 札幌交響楽団 初代常任指揮者 荒谷 正雄氏 「フルトヴェングラーを語る」

 

司会 フルトヴェングラー協会事務局長 田伏 紘次郎

 

                     1990年11月18日