フルトヴェングラーの戦時中の演奏について

 フルトヴェングラーのレコードで一番議論の的になるのが戦時中のライブ録音と戦後のスタジオ録音で何故こうも演奏が違うのかということである。

 具体的に挙げるならベートーヴェン3番「英雄」の44年VPOと52年VPO、4番の43年BPOと52年VPO、5番の43年BPO、47年BPOと54年VPO、6番の44年BPOと52年VPO、7番の43年BPOと50年VPO、9番の42年BPOと51年バイロイト祝祭管、シューベルト8番グレートの42年BPOと51年BPOブラームス4番の43年BPOと48年BPOなどなどであり、ほとんどがベートーヴェンである。確かに聴いてみると戦時中の演奏はアクセントが激しく、クライマックスに向けてテンポが速まり金管は咆哮し、というように興奮を駆り立てていくような演奏である。

 それに対して戦後のスタジオ録音ではアクセントはやや抑えられ、テンポの変化は小さく各楽器のアンサンブルも重視されているように聴こえる。こうした違いの説明として「フルトヴェングラーは音楽には聴衆が必要であると考えていた。そのため聴衆がいるライブ録音と聴衆がいないスタジオ録音では演奏スタイルが違うのであり、聴衆がいるライブ録音こそ真のフルトヴェングラーの演奏であり、聴衆がいないスタジオ録音は気が入らないというか生ぬるいような演奏になっているのだと」と言われてきた。

 しかし、聴衆がいるかいないかで演奏が変わるなら戦時中も戦後もライブ録音なら演奏が同じになりそうなものであるが、聴いてみるとけっして同じではない。また、上記のような解釈のされ方はフルトヴェングラーのレコードが日本ではどのように受容されてきたかということにも一因がある。

 フルトヴェングラーのレコードを大別するなら①戦前のSP録音、②戦時中のライブ録音、③戦後のスタジオ録音、④戦後のライブ録音、に分けられ、そしてそれぞれにベルリン・フィルを振った演奏とウィーン・フィルを振った演奏がある。

 日本ではフルトヴェングラーのレコード発売は戦前のSP録音から始まるがワルターなど他の指揮者に比べて録音が少なかった。主なものは37年のベートーヴェン5番、38年のチャイコフスキー6番、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死ぐらいである。それから戦後数年が経過してから戦後のスタジオ録音が発売される。DGよりシューベルト第8番グレート、ハイドン88番、シューマン4番、55年には東芝EMIからベートーヴェン3、4、5番、バイロイトの第9などが発売される。

 そして戦時中のライブ録音が発売されるのはそれから10年以上が経過した60年代末に英ユニコーン盤が輸入されたのが最初だった。そして70年代に入り相次いで戦後のライブ録音が、放送局などで保管されていた音源からレコード化されていった。

 しかし、多くの戦後のライブ録音は正規録音ではなくまた音も不鮮明な録音が多かったため、メジャーレーベルから発売されることは稀で、それらは主に日・独・仏といった各国のフルトヴェングラー協会から発売されることが多かった。そのため新譜紹介の雑誌で大々的に取り挙げられることは少なかった。このように日本におけるフルトヴェングラー像は戦後のスタジオ録音から始まり、戦時中のライブ録音がそれに対抗するかたちで語られてきたのである。要するにフルトヴェングラーの演奏についての評価には戦後のライブ録音という観点がほとんど抜け落ちてしまっているのである。やはりこれではフルトヴェングラーの演奏を語る上では戦後のライブ録音を落しては公正な判断はできない。

 そこで上記④の演奏を加えた形で今一度フルトヴェングラーを論じなければならないと考えた。

 そういう観点から①、②、③、④の演奏を聴いてみると、②の戦時中のライブ録音が③、④とはかなり違っているということに気付かされる。ということはライブかスタジオかとか、ウィーン・フィルベルリン・フィルかということによって演奏が違うというよりはやはり「戦時下」という特殊な状況が②の演奏にただならぬ影響を与えていると考えられるのではないだろうか。

 この戦時中の演奏についてイギリスの音楽学者ピーター・ピリーは「レコードのフルトヴェングラー」の中で次のように述べている。

「ナチの勢力の輪が彼(フルトヴェングラー)を包囲し、集団的狂気と化したドイツで、ゲーテベートーヴェンの精神の支持者として、彼がほとんど孤立状態にあったときに造られたこれらのレコーディングを通して、われわれは彼にスタイルの別な一面をのぞきみることができる。

 これらの戦時中の演奏がはっきりと伝えていると思われる精神的メッセージは、きわめて明白に読み取れ、新しいレコーディングが明るみに出るにつれて、その証拠が容赦なく突きつけられる。フルトヴェングラーの戦時中の演奏の大部分が、音楽の中で、言葉にするには危険であり、またむだでもあるメッセージを、声高くしゃべろうと努める、狂気に近いひとりの人間を浮き彫りにしている。ベートーヴェンの『第7番』、あるいは1943年のバイロイト音楽祭の『マイスタージンガー』のような音楽でさえ、熱っぽい光で燃えている。『マイスタージンガー前奏曲は、狂的な激しさで突撃する一方で、第3幕への前奏曲には、それまでみられなかったような大きな悲劇的意味が加えられている。1942年3月、ベルリンの旧フィルハーモニーのホールで演奏された『第9』には、この傾向がはっきりとみてとれる。彼のそれ以前の演奏で、これほどの激しさ、これほど大胆な攻撃に達したものはなかった。このメッセージは、もはやドイツの愚者たちへのおだやかな訴えではない。この神の使者は、狂乱状態にあるが、夢を追っている。彼は、自分が何をいっているのかもはや完全にのみこめてはいない。しかし彼は、同胞たるドイツ人たちによって裏切られ、自らの声をもはやもたないドイツ人たる彼を通して、神デルファイが語ってくれるであろうことを信じ、この神の信託に身を投じる。

 この時期のフルトヴェングラーの演奏を特徴づけているグロテスクなものと崇高なものとのあの奇妙な混合は、こうした結果によるものである。これらの演奏はきびしい批判を受けている。底に誇張、半狂乱な状態をみることは容易だが、皮相的な批評家が見落とすものは、巨大な祈りである。ここにいるのは、あまりにも謙虚で偉大であるため、愚かと思われることをもはや意に介さないひとりの人間である。彼はその夢に到達するかそれとも滅び、死ななければならない。『第9』の演奏で、彼が二つのことをやっていることがしだいに明らかとなる。最初の二つの楽章で、恐怖と残忍性を強調していることと、彼が心底から打ち込んでいる合唱の終楽章に向かって音楽を造形していることである。そして彼のみが、合唱の終楽章についてのいつもの批判を寄せつけないような献身で、これを演奏できたのではないかと思われてくる。フルトヴェングラーが訴えたい──ヒトラーの愚か者たちや奴隷たちに向かって、人間はすべて同胞であり、剣は神の子を分裂させるがゆえに不当だというメッセージを投げつけたい──と願っているもの、それはベートーヴェンにとって大きな意味をもっていた歌詞、シラーの詩である。『そういっているのはわたしではない、ベートーヴェンだ!』彼はこう叫んでいるようにみえる。」(ピーター・ピリー著「レコードのフルトヴェングラー」横山一雄訳 音楽之友社 P26~27)

 

 戦時中の演奏について狂乱状態と祈りの二面性があると指摘しているのはこのピーター・ピリーの炯眼であると思う。それも身の危険と隣り合わせで行われた演奏でもあるのだ。しかしこの引用文の中にあるように批判が多いのも事実である。果してベートーヴェンの曲の解釈としてどうなのか、あまりにも恣意的に解釈しすぎているのではないか、というものである。私はベートーヴェン交響曲のこのような解釈もあるのではないかということをこれから考察してみたい。

 

 注: 文中のVPOはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団BPOベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 

 

 ベートーヴェンが中期の傑作を書いていた頃(1804~12年)というのは、ナポレオン戦争の時代でヨーロッパ中が戦争していた時代だった。1789年に始まったフランス革命はその後互いに権力闘争により混乱を究める。その混乱の中、ナポレオン・ボナパルトが1804年に皇帝の位に就いた。ナポレオンに交響曲第3番を捧げようとしていたベートーヴェンがナポレオンの皇帝戴冠の報せを聞いて怒り、表題をボナパルトから英雄(エロイカ)に変えたのは有名な話である。

 しかし、ベートーヴェンが住んでいたウィーンはそのナポレオンに翌年の1805年に占領される。その後もナポレオン率いるフランス軍はヨーロッパ全土で戦争をする。1807年にはプロイセン(ドイツ)、1808年にはスペインに侵攻し、その後も各地で戦争は繰り返された。そのナポレオンの覇権に翳りが見え始めるのが1812年のモスクワでの敗北でありナポレオン軍は全滅に近い打撃を受ける。それから各地でナポレオンに対する反攻が始まり、1813年の諸国民戦争で対仏同盟軍が勝利し、パリが陥落するとついに1814年にナポレオンは失脚する。

 こうしてみるとあのロマン・ロランが「傑作の森」と呼んだ中期の曲はまさしく戦争の時代に作曲されていたことがわかる。中期の最後の交響曲7・8番が作曲されるのは1812年でベートーヴェンの中期の傑作はまさしく戦争中に作曲されたものだったのである。これらの戦争は作曲家ベートーヴェンに当然影響を与えないではいなかったはずである。いくら部屋に閉じこもって作曲をしていようと砲弾が打ち込まれるのであれば、どこかに避難しなくてはならない。砲撃が止んでも街に出れば残虐な場面の跡が残っていたはずである。ベートーヴェンにしてみれば最初は古い秩序(アンシャンレジウム)を壊し、新しい秩序をもたらすはずのナポレオンが、皇帝になり彼も旧体制と同じ人物でしかなかったことに幻滅するという苦い経験をした。しかしナポレオンが古いものを打ち壊していったことは間違いない。自分の理想とは違う人物が、全てではないにしてもある程度は実現していったことをベートーヴェンはどう受け止めていただろう。内心は複雑だったはずである。そのような外部の惨状と内部の複雑な思いがベートーヴェンの作曲に影響を与えていても不思議ではない。

 

 もう一人、このナポレオン戦争の時代の芸術家について考察してみたい。それはスペインで宮廷画家をしていたフランシスコ・デ・ゴヤ(1746~1828)である。スペインにも1808年にカルロス4世と息子フェルデイナント7世の親子争いに乗じてフランス軍が進駐してきた。カルロス4世は退位して国外へ亡命し、フェルデイナント7世はフランスで拘束されてしまう。その後、ナポレオンの兄ホセ1世がスペインに君臨するがスペインの人民は我等の王フェルナンド7世を返せと叫び、ゲリラ戦でフランス軍に抵抗した(スペイン人民戦争)。その結果国土は蹂躙され各地で様々な残虐な殺戮が繰り返された。ゴヤは「戦争の惨禍」という有名なスケッチ集に戦場での残虐行為の数々を誰に注文されたわけでもなく、発表するあてもなく描き連ねていった。またゴヤの「マドリード、1808年5月3日」は進駐してきたフランス軍に抵抗の狼煙を挙げた人民に対してフランス軍兵士が銃殺しようとしている絵である。そして1813年に諸国民戦争でついにナポレオンは失脚し、スペインに再びフェルナンド7世が玉座に返り咲くが、今度はこのフェルナンド7世が早速復讐にかかる。せっかくホセ1世が中世的野蛮として禁止した異端審問所を再開し、絶対王政への反対者をことごとく弾圧し、なかには独立運動の功績があった者まで処刑した。フランス軍がいたとき以上の残虐にさらされたスペインは血の海となった。スペイン人民はフェルナンド7世が自分たちの期待とは違ったことに気付くのである。ゴヤのスペインでもオーストリアベートーヴェンと同じように外部の惨状と内部の複雑さがあったのである。

 ゴヤは1819年にマドリッド郊外に「聾者の家」を購入する。ゴヤはここで4年間過ごし、「黒い絵」と呼ばれる14枚の連作壁画を描いた。「わが子を喰らうサトゥルヌス」、「ユーディト」、「魔女の夜宴」などどれもこれも異様な雰囲気に包まれた絵画である。人間の狂気というか、例えようもない暗部、無意識の下にある獣性とでもいうようなものが表現されている。これらのゴヤの絵で表現されていたことが同時代のベートーヴェンの音楽にも潜んでいると考えてもそれほど見当外れなこととは思われない。

 もしそうだとするなら第二次大戦中の戦時下でのベルリンやウィーンでのフルトヴェングラーの演奏にピーター・ピリーが指摘したように狂気じみたものがあったとしてもそれは決して見当はずれな解釈とは思われないのである。いやそれこそがベートーヴェンの時代を表すもっとも正しい解釈なのではないかとさえ思えてくる。戦時下のフルトヴェングラーの激しい、狂気じみた演奏こそがベートーヴェンが表現しようとした音楽なのではないか、そんな気さえしてくる。

 

 今はインターネットで簡単にゴヤの絵を検索できるので一度これらの絵画をご覧になって、人間の狂気、獣性、暗部というものがどのように表現されているかをご覧いただきたい。そして同時代のベートーヴェンの曲についてもそのような表現が潜んでいて、フルトヴェングラーの戦時中の演奏がそれを見事に表現している、というような解釈をしても私はけっして見当外れなものではないと思う。

 

ゴヤに関する箇所は中野京子著「怖い絵 3」朝日出版社、「ブルボン王朝12の物語」光文社から要約抜粋したものです。