「横浜」で気付いたこと

 横浜に行ったのは今回で三度目。1回目はもうかなり前になるが、中華街に行った時だった。みなとみらい線がまだなく、関内駅から歩いて行った。途中、横浜スタジアムの横を通ったとき、初めてプロ野球フランチャイズ球場を見て、大きいなあと感じたことを覚えている。円山球場の1万人ぐらいしか入らない球場しか見たことがなかったので、外から見るだけでも本当に大きいと感じた。

 2回目はNBAのマイケル・ジョーダンのプレイを観に行くため、横浜アリーナに行ったときだった。横浜アリーナに初めて入ったときも大きいなあと感じた。屋内施設はそれまで真駒内アイスアリーナの10000人ぐらいの施設しか知らなかったので17000人が収容できる横浜アリーナは本当に大きくて凄いなあと感じた。

 今は札幌ドームがあるので、再び横浜スタジアム横浜アリーナを見てもあの頃のような驚きはもうないだろうが、当時は若かったこともあり、本当に驚いたものだった。

 というように「横浜」は今まで見たこともない大きな施設を見ることができた「街」だった。それは東京でも大阪でもよかったのかもしれないが、偶然、横浜だったのも何かの「縁」なのかもしれない。

 

 今回の横浜行きの目的はみなとみらいホールにコンサートを聴きに行くことだった。みなとみらいホールは初めてだが、今では札幌コンサートホールKitaraや札幌文化芸術劇場hitaruもあるので、かつて横浜スタジアム横浜アリーナを見たときのような驚きはさすがになかった。

とはいえ、みなとみらい地区には日本一の高さを誇ったランドマークタワー、コスモワールドの大観覧車など「見たことがない巨大な施設」がある。しかし、かつて横浜スタジアム横浜アリーナで感じた驚きはなかった。あの頃に比べて年を取ったということなのかもしれない。

 

 逆に以前、他のところでも感じたことがあるあの「違和感」も同時に感じた。その他のところとは「千葉の幕張」、「福岡シーサイドももち」、「東京臨海副都心」、「神戸ポートアイランド」だった。いずれも「横浜みなとみらい」と同じように埋め立て地に巨大な施設が建ち並び、その街のシンボルになっている場所だ。これらこそが「都会」であり、「未来都市」なのだろう。

 

「横浜みなとみらい」に来たときに、これまで訪れたあの「未来都市」で感じた「違和感」の中身が判ったような気がした。一言で言うなら「自然」がないこと、だった。街には木々が生い茂り、所々に花が咲いている、ということがなかった。いや、ないというよりは「自然」を極力排除して造られているのだろう。

 花や木がなければ虫もいないし鳥も来ない。虫がいたり鳥の糞害があったりするような「自然」は清潔な「未来都市」には相応しくない。花や木を植えたりして公園を整備すると虫や鳥が来て、苦情も出るのだろう。行政としてもそんなことに一々対応するぐらいなら手間がかかる木や花を植えたりしない方が都合はいい。「自然」がないことこそ「未来都市」なのだろう。

 

 そこに思い至ったときに翻って札幌や北海道のことを考えた。北海道の街を車で移動していると街の中心を通る道には街路樹の下に花々が植えられている。札幌でも公園はもちろん、街路樹の下には花が植えられていることが多い。

そんなときに明治に石川啄木の読んだ歌と「秋風記」のことを思い出した。大通公園には石川啄木の像と歌碑がある。その歌には次のようにある。

「しんとして幅廣き街の/秋の夜の/玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにほひよ」(一握の砂)

その歌碑の横には「秋風記」の一部が刻まれている。

「札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。アカシヤの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立の市(まち)なり。おほらかに静かにして人の香よりは樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうなる郷(さと)なり、詩人の住むべき都会なり。」

 

 横浜の「未来都市」を歩きながら感じたのは、札幌は、啄木が詠んだように「大いなる田舎町」なんだなあ、と気付いたことだった。おそらく他の大都市はますます「都会化」しながら「未来」に向かうのだろう。それでも北海道の札幌は新幹線が通っても200メートルを越す高層ビルが建っても、木や花の香りがする街であり続けて欲しい、と思う。