プロ野球観戦の話

 2001年(平成13年)に札幌ドームが完成した。北海道で初のドーム型サッカー場兼野球場で収容人員は約4万人だった。札幌ドームは2002年(平成14年)の日韓サッカーワールドカップの開催に合わせて建造された施設だった。天然芝のサッカーコートを屋外からドーム内に移動させるという世界初?の全天候型のサッカー場だった。

 札幌ドームは公的な施設ではそれまでで最大規模の施設で札幌オリンピックの時に建てられた施設よりはるかに大きかった。札幌オリンピック終了後、そのオリンピック用に作られた施設をどの様に活用して維持していくかというのは札幌市の課題でもあった。巨大な施設の維持費には巨額の経費がかかるからだ。

 建設が決まった頃から札幌ドームには、日韓ワールドカップ終了後にこの巨大な施設をどのように維持していくのかという懸念が付きまとっていた。札幌には「コンサドーレ札幌」というプロサッカーチームがあるが、サッカーは月2回しかホームでの試合がない。札幌ドームを維持するためにはプロ野球チームが来るしかないと思っていた。ただ北海道に移転するとしてもジャイアンツ戦やタイガース戦があるセリーグであればそれなりに観客が入るだろうがパリーグでは誰も観に来ないという畏れがあった。移転の可能性としてはジャイアンツ以外の在京球団ではないかと思っていた。日本ハムファイターズジャイアンツと同じく東京ドームをフランチャイズ球場にしているので北海道に移転してくる可能性が十分あったが、観に行く人がいるとは思えなかった。北海道で多少、人気があるパリーグの球団は西武ライオンズだった。これは一時期、日本シリーズジャイアンツに勝っていたためアンチ・ジャイアンツファンから支持されていたためでもある。しかし、ライオンズは準フランチャイズという条件を出していたため札幌市側が拒否したらしい。

 そしてついに2004年(平成16年)シーズンから「日本ハムファイターズ」が「北海道日本ハムファィターズ」となって札幌ドームを本拠地として移転すると発表された。しかし、この時の道民の多くの反応は「パリーグの万年Bクラスのチームの試合なんて誰が観に行くのか」というものだった。北海道のプロ野球ファンというとジャイアンツが一番多く次にタイガースなどのセリーグの球団、パリーグではデパート、スーパーマーケット、ホテル、アイスホッケーなどで企業としては身近だった西武ライオンズがあった。北海道では日本ハムファイターズは一番知名度がなかった。招致に尽力した当時の桂信雄札幌市長は「北海道のチームなら道民も応援してくれるだろう」という楽観的なコメントをしたことがあったが、これに対して北海道ローカル番組で人気があったキャスターは「北海道のチームだからって応援すると思ったら大間違いだ」と反発していたことがあった。

 移転1年目の2004年(平成16年)、ファイターズのことはほとんど話題にならなかった。札幌ドームで試合をしていてもテレビラジオではキー局のジャイアンツ戦を放送していた。大型ショッピングセンターのレジを出たところにファイターズのレプリカユニフォームや応援グッズなどが陳列されている棚があったが手に取っている人もいなくて半ば埃を被ったようになっていた。それでもこの年は3位に入りプレーオフ(優勝チームはプレーオフで決まっていた)に進出したが、1回戦で敗退した。

この年は北海道の野球界で初めてのことが起きた。それは夏の甲子園駒大苫小牧が優勝したことだった。道民の野球への関心が一気に高まった。ファイターズが北海道に定着するにはとてもいい潮の流れになってきていた。

 そんなこともあり移転2年目(2005年、平成17年)には少し雰囲気が変わってきた。テレビや新聞でも日々の試合結果が伝えられるようになってきた。この年、無料券をいただいて初めて札幌ドームにファイターズの試合を観に行った。この年はおそらく5回ぐらい観に行ったと思う。そのとき、ファイターズが勝ったときすごくうれしかったことを覚えている。地元の球団を応援する楽しみを知った気がした。大型ショッピングセンターの陳列棚では応援グッズなどを手に取る子供と女性を見かけた。移転前、北海道にはほぼ誰もいなかったファイターズファンだが、最初にファンになったのは女性と子供だった。野球好きな大人の男性はすでにセリーグの贔屓チームがあったのでなかなかファイターズの試合に関心を持たなかった。初めて札幌ドームに行ったときも、古くからのプロ野球ファンは少なく、今まで野球なんて見ていたのだろうかというような女性と子供が多かった。

 初めて札幌ドームで観戦した頃から、ファイターズのピッチャーがスリーボールになるとピッチャーに向けて励ましの拍手が起きていた。これはファンが、野球解説者が言う「フォアボールのランナーはヒットで出たランナーよりも点に結びつきやすい」という解説を知っていて、フォアボールを恐れずに勝負をしろという気持ちから自然に起こった拍手だった。移転2年目のこの年はチームの成績は5位でプレーオフには進出できず、私自身の観戦成績は2勝3敗だったことを憶えている。それでも北海道では夏の甲子園では駒大苫小牧が2連覇を果たしたので野球人気は根強くあった。

移転3年目(2006年、平成18年)になると状況がかなり変わってきた。道内のテレビラジオでファイターズ戦が中継されるようになり、ファイターズ関連の番組も増えてきた。それでも日本テレビ系列のSTVは相変わらずジャイアンツ戦の放送を続けていた。この年はから札幌ドームで開催される3連戦の内、1試合は観に行こうと思うようになった。前半は勝ったり負けたりという感じだった。外野席だけではなく内野席のファンも立ち上がって応援する稲葉ジャンプが話題になったのもこの頃からだった。

 この年の夏の甲子園駒大苫小牧早稲田実業の決勝戦となった。駒大苫小牧は3連覇がかかるが、全国的には早稲田実業ハンカチ王子こと斎藤佑樹の話題で持ちきりだった。おそらく津軽海峡の南側は早稲田実業を応援する人の方が圧倒的に多かっただろう。1日目では決着がつかず2日目に持ち越しとなり結果は早稲田実業の優勝となった。全国的な盛り上がりとは裏腹に北海道民は落胆していた。しかし、この夏の甲子園が終わった頃から、5割付近を行ったり来たりして3位にいたファイターズが勝ち星を増やすようになり、1位通過争い(この頃はペナントレースで1位なっても優勝とはならずプレーオフに勝ったチームが優勝だった)に加わるようになった。シーズン当初はジャイアンツを応援実況していたSTVのアナウンサーたちが、シーズン終盤に札幌ドーム付近のコンビニの駐車場にテントを設けて札幌ドームに向かうファイターズファンに「よろしくおねがいします」と声をかけていたところに遭遇したときには、その手のひら返しに驚いた。1位と2位のホークスとライオンズが下位チームに負けが込んで来るようになり、シーズン終盤には3チームで1位通過を争った。

 結局、ペナントレースはファイターズが1位通過となった。プレーオフ第1ステージは3位のホークスが勝ち抜いて第2ステージに上がってきた。ファイターズに1位通過チームとして1勝のアドバンテージがあったので2勝するとリーグ優勝となる。1試合目はファイターズが勝利し後がないホークスはエースの斎藤投手を登板させた。ファイターズはシーズン中、斎藤投手には一度も勝っていなかった。両チーム点が入らないまま9回裏にファイターズがサヨナラ勝ちをしてリーグ優勝を決めた。

 日本シリーズのチケットは早くから売り切れになりネットでは高額なプレミアムが付くほどだった。日本シリーズでもファイターズがセリーグ優勝チームのドラゴンズに4勝1敗で勝ち日本一に輝いた。自宅でテレビを見ていたが、居ても立っても居られずパブリックビューイングの会場に行った。会場に向かう途中で見える近所の景色がいつもと違って見えるほど街中の気配が違っているように感じた。北海道中が一つになっているという感覚は初めてのものだった。パブリックビューイングの会場に入るとファイターズが追加点を上げ、周りの人たちとハイタッチをした。初対面の人たちと一緒に目の前で起きている出来事に歓喜するという感覚もいままでにはなかった。そのまま試合が終了しファイターズは日本一になった。全国的に人気があるプロスポーツで北海道のチームが日本一になるということを道民は初めて体験した。優勝インタビューでのヒルマン監督の第一声は「信じられない」だった。

 優勝パレードは札幌駅からすすきのまで15万人のファンであふれ、紙吹雪が道路中に舞った。紙吹雪を付けた人が各店に入っていったので店内にも紙吹雪が落ちていたが店員さんたちは特に嫌な顔もせずに掃除していた。

優勝の喜びもつかの間、優勝に貢献した新庄選手はすでに引退を発表していたし、主力の小笠原選手も移籍が決まっていた。道民は新たな現実も突きつけられることになった。

 翌2007年(平成19年)年からは3連戦の内1試合は観戦することにしてファンクラブにも入り、チケットを買った。この年の町内会の親睦会でも札幌ドームに観戦に行った。9回裏に逆転サヨナラ勝ちをするという劇的な試合になった。

ダルビッシュはこの年から日本のエースになった。投手陣の頑張りでペナントレースとこの年から始まったクライマックスシリーズを勝ち上がり日本シリーズに進出したが、ドラゴンズに歯が立たずに負けた。2年連続のパレードとなったが前年ほどの盛り上がりはなかった。

 翌2008年(平成20年)から梨田監督になった。座席ではパスポート席が新たに設けられた。札幌ドームでのファイターズ主催試合(年間58試合ぐらい)に限り、今まで自由席だった3塁側B席とレフトスタンド席の年間シートを格安(レフトスタンドで49,000円)で販売するというものだった。これにより翌日の自由席を確保するために、試合終了前にチケット売場に並びシートを貼るということはなくなった。外野応援席の「常連さん」がこの頃から出てくるようになった。最初の頃はスタンドで声を上げて応援するなんて自分には無理だと思っていたが見ているうちに自分もあの中に入りたいという気持ちが湧いてきた。

 翌2009年(平成21年)に私も年間パスポート席を購入し、レフトスタンドで応援することにした。選手の応援歌やチャンステーマを、声を挙げて応援した。札幌ドーム以外の球場でも観戦したいと思い、旭川スタルヒン球場福岡ドームにビジター観戦にも行った。福岡ドームでは1勝1分け1敗だった。2日目がナイターだったので太宰府観光と九州国立博物館で阿修羅像を見ることができた。

 パスポート席では1年間周りが同じ人たちなので何となく顔見知りになり気さくに話しができるような方々が多かった。ファイターズという共通の話題で一緒に応援する仲間という感じがとてもよかった。

 この年は打線が好調でリーグ優勝を飾ることができた。クライマックスシリーズでは第1戦でスレッジ選手の逆転サヨナラ満塁ホームランを目の前で見ることができた。日本シリーズも観戦に行ったが余り良いところがなくジャイアンツに敗れた。終盤でダルビッシュ投手が怪我したこともひびいた。

 2010年(平成22年)成績は低迷したが、ドラフトでは競合の末、人気がある斎藤佑樹投手の指名権を獲得し全国的に大いに盛り上がっていた。札幌ドームでの単独入団会見を観に行った。1万人ぐらいの観客が来ていた。

 2011年(平成23年)は東日本大震災の年でオープン戦でのイーグルス戦で主将の嶋選手が「魅せましょう、プロ野球の底力を」という宣言を直接札幌ドームで聞いた。

 2010年(平成22年)、2011年(平成23年)もパスポート席で応援したが、 この頃からパスポート席では「わだかまり」を感じるようになった。応援の仕方が悪いとか、必要以上の応援を強要するようなこともあった。応援団に対してもここはこのチャンステーマだろうとか、この応援をやれとか様々な不満や罵り合いも目にするようになった。両年ともシーズン終盤で優勝争いから脱落してしまったこともあり応援席での不満はますます高くなっていた。特に2011年はシーズン終盤にホームゲームで連敗してしまい、私自身も応援する気力が次第になくなってしまった。そのため来年からはもうパスポート席を購入するのは辞めることにした。

 2012年(平成24年)からは栗山監督になった。前年にダルビッシュ投手が大リーグに行ったのでエース不在となった。開幕戦ぐらいはと思い観戦に行ったところ、斎藤佑樹投手が完投して見事初戦を飾った。パスポート席は購入していなかったが、30試合ぐらいは観に行っていたと思う。この年はどのチームも決め手を欠き、僅差でファイターズが抜けて優勝した。クライマックスシリーズも勝ち進んだが日本シリーズではジャイアンツに負けた。この年のドラフトで大リーグ入りを表明していた大谷選手を指名した。当初は入団を拒否していたが投手と打者の二刀流での起用を提案することで大谷選手を翻意させて入団することとなった。

 2013年(平成25年)は大谷の器用を優先する采配でチームのまとまりを欠き最下位に沈んだ。二刀流について野球評論家の多くは投手としても打者としても中途半端に終わるだけだから早くどちらかに決めろという意見ばかりだった。プロを甘く見るなとか、今までそんな選手はいないしできないとわかっているのだから無駄なことをするなという否定的な意見ばかりだった。ファイターズファンはどちらもみたいという意見が多数だったが、北海道のファンは野球を知らないからそんなことを言っているのだという野球評論家もいた。チームは最下位だったがこの年は割と観に行っていた。観客も少なくてチケットも取りやすく気楽に見ることができた。

 2014年(平成26年)は大谷選手の二刀流の形が少し見え始めてきた頃で大谷選手の成長を見ることも兼ねて札幌ドームや地方球場に観戦に行っていた。チームはクライマックスシリーズに進んだが、敗退した。また稲葉選手、金子選手といった北海道移転後ファイターズを引っ張ってきたベテラン選手が引退し、時代の変り目を感じた。

 この年はかなり観戦に行っていて、パスポート席を買った方が割安になってしまった。そのため地方球場で知り合った人に頼んで再びパスポート席を購入することにした。

 2015年(平成27年)再びパスポート席で観戦して応援に気が入るかと思っていたが、一度失った応援へのモチベーションは戻って来なかった。それでも周りに合わせて形通りの応援はしていた。久しぶりにパスポート席に戻ってきたが、知らない人同士が「同じチームを応援する」という一体感はすでになく、仲間内での応援となっていた。かつてのように一人で行っても近くの席の人たちと点が入ったときに互いハイタッチをするというような雰囲気はすでになくなっていた。

 大谷選手について、野球評論家やマスコミは相変わらず投手か打者のどちらかに決めろと主張していて、ファイターズファンの思いとは違っていた。

 2016年(平成28年)この年がファイターズ応援に通い続けた最後の年となった。シーズン途中から試合を最後まで観戦せずに勝っていても負けていても7回か8回辺りで席を立つことが増えた。勝ち負けがどうでもよくなってきた。チームは調子がよく交流戦が終わる頃からファイターズは連勝を重ね優勝争いをするようになった。この年は北海道新幹線が開通した年で、函館から仙台まで新幹線に乗ってビジター観戦にも行った。

 それでも応援のモチベーションが戻ることはなかった。札幌ドームでの最終戦武田勝投手の引退セレモニーがあり、選手も引き上げた後のグランド整備を見ながら座席に座ってファイターズを応援してきた10年間を頭のなかで振り返っていた。選手の応援歌やチャンステーマを大声で歌っていたときのこと、点が入り周りの人たちとハイタッチをして喜びを分かち合ったこと、ピンチを凌いで勝利した瞬間は本当に嬉しかった。それを頭の中で思いだしながら、もう二度とこのような経験をすることはないと脳裏に刻んだ。

 最終的にファイターズがリーグ優勝をしてクライマックスシリーズに進んだ。札幌ドームでのホークス戦は最後に大谷選手が登板して日本最速の投球をして大いに盛り上がった。日本シリーズでもカープを下して日本一に輝いた。北海道中が10年前と同じように湧き上がっていたが、以前のようにその中に入りたいという気持ちはなくなっていた。また、このチームは大谷選手が抜けると勝てなくなると思っていたので、優勝パレードもしばらくはないと思い観に行った。

 またこの年にはファイターズが新しい球場を作る構想があることが発表された。それでも本当に札幌ドームを出るのかどうか、ドーム使用料の値下げ交渉の材料にしているだけではないかというような見方もあった。しかし、この時はすでにファイターズは札幌ドームから出ることを決めていたらしい。札幌ドームとの交渉が決裂したからではなくボールパーク構想を実現するためには新たに球場を作るしかないと球団側も日本ハム会社も決断した結果だった。

翌2017年(平成29年)は10回観戦できる回数券を買って観戦に行った。突然行かなくなるのも揺れ戻しがあると思い、軟着陸するための猶予という感じで観戦に行った。できるだけ周りに人がいない内野席を選んだ。大谷選手は開幕当初から怪我でほとんど出場はなかった。観に行ったが試合途中で還ることが多く結果も憶えてはいない。それでも道内の地方球場には観戦に行っていた。試合を観に行くというよりは北海道内のドライブ旅行だった。

 札幌ドーム最終戦では大谷選手が四番ピッチャーで先発し完封勝ちをした。そしてシーズンオフにはポスティングで大リーグに行くことが決定した。

翌2018年(平成30年)から2021年(令和3年)までは観戦に行っていない。この間予想通りというかやはりチーム成績は低迷した。

 2018年(平成30年)にファイターズは札幌ドームから北広島に移転することを決定した。北広島移転は札幌ドームの使用料を巡る交渉材料でしかないというのは単なる憶測でしかなかった。「世界がまだ見ぬボールパーク」は実現に向けて歩み始める。

 2020年(令和2年)コロナ禍により無観客試合となった。パスポート席もシーズンシートも払い戻しになったと思う。

 2021年(令和3年)制限付で観客が入ることになったがパスポート席は発売されていないようだった。テレビ画面越しでもかつて一緒に応援していた人たちの姿をレフトスタンドで見ることはなかった。シーズン終了間際に中田選手の暴力事件があり、急遽、ジャイアンツにトレードに出された。ドラフト競合の中で入団し、栗山監督は打てなくてもファイターズの4番として育てようとしていたが、結局こういう形でチームを去ることになった。不品行な選手を4番として優遇し、精進するどころか慢心を生んだ栗山監督の責任もあると思う。

 2022年(令和4年)この年から新庄監督になった。札幌ドーム最後の年なので5年ぶりに観戦に行った。5月中旬頃、イニングの合間にファイターズガールが奇妙なダンスをしているなあと思っていたらそれがキツネダンスだった。変わったダンスをさせられてファイターズガールも大変だなあというぐらいにしか思っていなかったが、YouTubeで配信され、視聴回数があっという間に100万越えになり全国的に話題になった。地上波でも取り上げられるようになり大晦日紅白歌合戦にも出場した。各球団にチアガールは居るが、地域や球団を飛び越えて話題になったチアガールはファイターズガールが初めてだったろう。

 この年は2回観戦したが、2試合目は横浜との交流戦で今永投手がノーヒットノーランを達成した試合でこれが札幌ドームで最後に観戦した試合だった。この年は最下位だった。

コロナ禍による観客人数の制限が解除されていたがパスポート席は販売されていないようで、レフトスタンドには空席が目立っていた。

 2023年(令和5年)シーズン前にWBCで日本が優勝し、日本代表の栗山監督は「名将」と言われた。大谷選手の二刀流を優先させた結果、他の選手が育たなくなりチーム力が下がり結果的に弱いチームにしたのが栗山監督だと思っている者としては歯がゆい感じがした。

 そしてファイターズは北広島市の新球場エスコンフィールドで新たなシーズンを迎えることになった。若手が出ては来たようだがこの年も最下位となった。

 2024年(令和6年)新庄監督の下、2年連続の最下位となったファイターズ。3年目は流石にないだろうと思ったがこの年も新庄監督は続投になった。シーズンオフの補強がうまくいったことと若手が伸びてきたことで勝ち星が先行するようになった。開業当初はあまり人が入っていないと言われていたエスコンフィールドにも観客がたくさんくるようになった。

 

 以上のようにファイターズが移転してから経験したこと、気付いたことについて書いてきた。2006年(平成18年)に日本一になり球場で直接応援したいという気持ちが出てきて、それから札幌ドームでのホーム試合はほとんど観に行き、函館、旭川、帯広の地方球場にも行った。しかし、次第に応援するモチベーションが下がり、2016年(平成28年)に再び日本一になっても以前のように球場で応援したいという気持ちが戻ってくることはなかった。むしろ戻ってこなかったことで応援に区切りを付けることができた。

 10年間観戦してきて思い出に残っているのはダルビッシュ投手と大谷選手という大リーグで活躍している選手も間近で見ることができたこと、球場で周りの人たちと喜びを分かち合えたこと、だろうか。

 パスポート席は格安のチケットで、球団が少しでも多くの観客に球場に来てもらおうと考案したのだろう。確かに常連の声出し応援をするファンがそれなりに来ていた。しかし、年数が経つとこういう人たちは「既得権者」のような振る舞いになってきた。彼らが、少しでも応援に手を抜いているような人に対して厳しい言動を浴びせるということもあった。そうなると次第に周囲に蟠りができ、排他的な人間関係にもなってくる。

 ビジター側の1塁側内野自由席にもパスポート席があったが、自由席にもかかわらずパスポート席を持っている人はいつもの席に他人が座っているとそこは私がいつも座っている席と言ってくるという話も聞いたことがある。

 球場に行かなくなるとテレビで見ることもなくなった。勝ち負けのあるスポーツは自分には合わないのかもしれない。それでも野球観戦に通っていた10年間は良い想い出になっている。