トゥーランドットを観て

 令和元年(2019年)8月4日、札幌文化芸術劇場hitaruでトゥーランドットを観劇してきた。東京オリンピックパラリンピックに向けた文化関連事業の一環として、東京文化会館および新国立劇場による共同製作として行われたものである。それに加えて滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールと札幌文化芸術劇場hitaruも提携して公演された。

 総合プロデュース・指揮が各国のオペラ劇場でも指揮している大野和士、演出はバルセロナオリンピック開会式の演出もしたアレックス・オリエ、演奏はバルセロナ交響楽団

 タイトルロールのジェニファー・ウィルソン、カラフのデヴィット・ポメロイ共に素晴らしい歌唱と演技力だった。また、リューの砂川涼子も最後の見せ場ではとてもいい歌唱を聴かせてくれたし、大臣たちも軽妙さと切なさをよく歌い分けていたと思う。そして、合唱も統率が取れていて迫力もあり、感情表現も見事だった。オペラを生演奏で観られる喜びを十分に堪能させてもらった。

 

 その上でやはり書いておかなければならないのが、最後の場面だろう。トゥーランドットのラストは通常、トゥーランドットとカラフが結ばれてハッピーエンドで終わるが、今回の演出ではトゥーランドットがあくまでもカラフと一緒になることを拒み、自害するという演出になっている。それについて演出のアレックス・オリエが当日配付されたパンフレットに「演出ノート」を書いている。いろいろと議論が多い結末でもあり、演出家本人の主張を全文引用したい。

 

ジャコモ・プッチーニが未完成のまま残したオペラがあるのは周知の事実である。『トゥーランドット』は一見、『愛』をテーマとした恐ろしい物語だが、実際は『権力』、そしてそれに向き合う勇気を持つ者が魅了される様子を描いている。『トゥーランドット』は残忍さ、苦痛、流血、死に満ちた愛の物語である。

 

 プッチーニの死により『トゥーランドット』は未完に終わったため、大きな謎が残ったままである。もしプッチーニが完成させていればどのような結末になっただろうかと考えざるを得ない。そして一番気掛かりなのは、狂気に満ちた血生臭い物語に反して、我々が知る結末は不合理ではないのか。

 

 この作品の舞台化を進めていく過程で、構成上重要な要素として浮かび上がってきたのがトゥーランドットのトラウマだった。このトラウマこそ根深い残忍さの源である。トゥーランドットの祖母は異国の男性に激しく乱暴された。そのため、トゥーランドットは愛することができなくなり、満たされない復讐への欲望を持ち続けている。

 

 トゥーランドットのトラウマの糸をたどっていくと、別の結末に到達した。プッチーニが満足できたであろう結末だと思いたい。プッチーニは全ての作品において、それぞれの悲劇のヒロインの物語を論理的に書き上げている。我々は始めからこのプロダクションでその論理性を再現することを目的としてきた。これがその結果である。」                                                                アレックス・オリエ

 

 私は常々、トゥーランドットのラストはやや話を早々と閉じてしまっているように感じていた。前半でこれでもかとトゥーランドットの残虐性を強調している割には簡単に愛に目覚めて、あれだけ流れた血が何事もなかったように顧みられなくなることに物足りなさを感じていたが、プッチーニが作曲の途中で死んでしまったので仕方がないのかなと思っていた。

 

 ラストシーンでトゥーランドットが自害するというのは公演前にSNSなどで知っていたが、実際に見てみると衝撃的なラストである。

 トゥーランドット自死を選んだ方が良かったという理由として私は次のように考えている。トゥーランドットは謎が解けなかった「敗者の死」を常に見続けていた。そして、自らは常に勝者だった。それがリューの死を見て、それは「敗者の死」ではなく「勝者の死」であることに衝撃を受けた。リューは死ぬことによって永遠にカラフの名を口にすることはなくなる、即ち勝者となった。それに引き換え、リューからカラフの名を言わせようというトゥーランドットはカラフの名を知ることができなくなる敗者となったのである。勝者が死に、敗者が生きた。敗者の死を嘲笑ってきた大臣たちも口々に、リューの死を、こんな重苦しい死を見るのは初めてだという内容のことを話している。そのためトゥーランドットは最後まで勝者でいるため、いや、屈辱的なカラフとの結婚を受け入れられず自死を選んだ、というものである。だから、この結末は「論理的に」筋が通っていると考える。

 オリエ氏のトゥーランドットのトラウマを強調し、自死には論理性があるという立場を私は支持したい。これからのトゥーランドットの演出はどうなっていくのだろう。