オーディオのこと 10(生の音は再現できるか?)

 今年のPMFミューザ川崎で聴いた音響はオーディオ的に考えさせられることがあった。

 7月10日にPMFウィーンの弦楽四重奏を聴き終えた後、「こんなにいい音を聴いたのだから、帰ったらオーディオの調整をしないとだめだなあ。」という会話を聞いた。私も確かにいい音だと思ったが、オーディオの調整をしようとまでは思わなかった。しかし、7月20,21日のPMFプレミアムコンサートでマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」を聴いたとき、これは2チャンネルのオーディオシステムでは再生は不可能だと思った。

 例えばステージの横幅が20メートルとして、そこから20メートル離れた正面となるとKitaraでは2階CB席の前列付近になる。大体この辺りがどのホールでも音がいいとされている。これをそのままオーディオに当てはめるとスピーカーを2メートル離してそこから2メートル離れた正面で聴くというのがオーディオでもセオリーになっている。生演奏でオーケストラをいい音で聴ける座席で聴くように、オーディオでも見かけ上、似たような音場感で聴くことはできるのである。しかし、この演奏会ではオーケストラの外側の座席に合唱団がいて、これはスピーカーの幅を遙かに超える。聴く位置を1メートルに近づけてもオーケストラもまた一緒に広がるだけでスピーカーの外側に合唱が広がるわけではない。     

 もしこの演奏をオーディオで再生しようと思ったら、オーケストラと合唱を別のマイクで取って録音し、スピーカーを外側にも2台設置し、内側のスピーカーはオーケストラ中心、外側のスピーカーは合唱中心に音を出し、できればリアスピーカーも置いて再生したい、と考えたりもしたが、そんな音源はない。

 逆に、ステージ幅の2倍の40メートルの座席(Kitaraだと3階の最後列ぐらい)で聴くと仮定して、オーケストラがスピーカーの真ん中から、合唱がスピーカーの両端から聞こえるような音場になるように録音して2チャンネルで再生するとよさそうだが、今度はソロとのバランスが取れなくなるだろう。

 実際の録音ではヴァイオリンとソプラノ合唱、低弦とバス合唱は同じような方向から聞こえ、ソロはやや真ん中辺りから聞こえ、管楽器はやや真ん中よりから聞こえるというのが一般的だ。したがって現在のところ、これだけの音響をオーディオで再生することは不可能だ。テレビカメラも入っていたので、いずれ何らかの形で録音を聴くことがあるかもしれないが、この壮大な音響の何分の一しか聴けないと思う。もう生演奏を聴いてもオーディオシステムを調整しようとは久しく思っていなかったけれども、この千人の交響曲で少々敗北感を味わった。

 

 それからもう一つ生演奏で驚いたのはミューザ川崎で初めて聴いたとき。ステージから比較的距離は近いのだが、音が直接飛んでくる感じではなく、輪郭がないというのか直接音ではなく間接音がフワーッと聞こえてくるという感じだった。便宜上、ここでは「実体感がない音」としておく。オーディオ的にいうと定位がはっきりしなくて音像の輪郭もないという感じなのである。オーディオではいわゆるヴィンテージのアンプとスピーカーの組み合わせで良く聴く音だった。昔の大型スピーカーの多くはバックロードホーンというスピーカーユニットの後ろ側に複雑な音の通路があり、そこを通ってきた音も聴けるようになっていた。またキャビネットも叩くと良く響くような造りだった。そうして正面のユニットから直接出てくる音と、位相が違う間接的に出てくる音を同時に聴いていたのである。そうすると定位感のないフワーッとした音になる。

 

 ミューザ川崎で聴いた次の日のKitaraではヴァイオリンからコントラバスまで弦を弓で擦る音とか、管楽器では息を吹き込んで音が出ている感じとか、ティンパイニィの革の張り具合までそこで鳴っている楽器がこちらに届いてくるという感じで聞こえる。こういう音を便宜上「実体感のある音」としておく。

 現代のスピーカーの多くはこの「実体感のある音」を目指していると考えて良いだろう。キャビネットを叩いてもまず響くことがなくユニットの後ろの位相が違う音は様々な技術を駆使して消えるようにしている。そのため音は細部まではっきりと聞こえ楽器の質感と同時にホールの響きも再現するようにしている。私自身はこういう音を目指してオーディオシステムを揃え、調整もしてきたつもりでいる。

 

 「実体感のない音」というのは、確かにきれいな音かもしれないが、生の楽器の音ではないと思ってきた。こういう音はオーディオ特有のもので、オーディオ草創期のメーカーの製作者が持っているある種の「美学」が反映した製品からのみ出てくる音だと思っていた。

 それがミューザ川崎ではそういう音が生演奏で聞こえてきたので正直、周章狼狽したのである。生演奏で聞こえてきた以上はもう生演奏でないとは言えない。今でもオーディオマニアの中にはヴィンテージものを求める人(むしろ彼らこそ本当のオーディオマニアかもしれない)は一定数いる。

 

 どこのホールで聴こうと「実体感のある音」も「実体感のない音」も生であることに変わりはない。オーディオで音楽を聴いている人の多くは、生演奏のような音を家庭でも聴きたいと思っているだろう。しかし、生演奏にもいろいろあるとなると、どのホールの生演奏なのかというところから話を始めなくてはならない。そして自分が聴きたい音はどんな音なのかを決めなくてはならないのである。オーディオ機器を選ぶ場合、自分でどのような音が聴きたいかをしっかりと持っていなくてはオーディオ機器を選ぶことはできない。そうしないと本当に泥沼に入ると思う。