北海道胆振東部地震のこと

 「晩夏」というのか暑さもしのぎやすくなり、天気もいい季節になった。半袖で丁度暑くもなく寒くもないという気候だ。札幌の街中は東西南北にほぼ沿うように碁盤の目に道路が走っている。春分秋分に近い季節になると、午後、西に向かって歩いたり、車を運転したりすると太陽が道路と一直線になり西日がまぶしい。寒くなる前の過ごしやすい時期なのだが、どうしても3年前の地震のことを思い出してしまう時期でもある。

 2018年(平成30年)9月6日(木)、午前3時頃に北海道の胆振東部で発生した地震は、震源地付近では大規模な山崩れにより多数の犠牲者を出し、北海道全体が停電となる「ブラックアウト」を起こした。その頃のことを私自身が経験したことを備忘録として綴っておくことにした。

 当日、多くの人は眠りについていたと思うが、私は偶然トイレに行くために目が覚め、部屋から出ようとしたときに地震が来た。最初は小さな揺れから始まり、次第に大きくなり家全体が大きく揺れた。大きな揺れが長く続き、阪神大震災の時の家が潰れた映像を思い出しこのまま家の下敷きになって死ぬのではないかと一旦は覚悟したが、家が潰れる前に揺れが収まり命も助かった。それからテレビをつけると震源胆振東部で震度7だという。マグニチュートは6.7で震度7地震にしては大きくないが内陸が震源地だったため揺れが大きかったらしい。

 しかし、しばらくするとテレビの電源がスッと消えた。ブレーカーを点検したが落ちていない。外を見ると信号機が消えていた。これはこの地域の変電所で異常があったのだろう、と考えていた。

 それからラジオを付けると震源地に近い厚真町で山崩れが発生して生き埋めになった人が大勢いるとか、札幌でも液状化で家が傾いているとか道路が陥没しているという情報が入ってきた。それと共に旭川など北海道のあちこちで停電が発生しているという情報も入ってきた。震源地から遠く震度も大きくないところで停電が相次いで発生している理由がよく判らず、何かおかしいなあと考えながらラジオを聴いていた。どうやら北海道中が停電になっていて、それは苫東厚真発電所で火災発生して、北海道中の発電所がブラックアウトになったからだと知ったのは数時間後のことだった。

 電気がない中で、停止した発電所をどうやって復旧するのかと思いながらラジオを聴いていると水力発電所を動かして砂川の火力発電所を起ち上げるという報道が入ってきた。いざというとき頼りになるのは水力と火力で、風力や太陽光などの自然エネルギーは役に立たないということを思い知らされた。

 この日はよく晴れていて、暑くも寒くもなく過ごしやすかった。午後になって近所を廻ってみると、セイコーマートは開店していたがセブンイレブンやローソンは閉店していた。スーパーでは店頭でカップ麺などを売っていた。我が家は電気が止まっても幸いガスと水道は使えたが、高層マンションに住んでいる人は水も止まるので近くの給水所に水を汲みに来ていた。夕方近くになると家の外でバーベキューをしている人がたくさんいた。冷蔵庫にあった肉を腐らせるぐらいなら焼いてしまおうということだったのだろう。道行く人に「食べていかないか」と声をかけている光景をたくさん見た。困っているときはお互い様ということなのだろう。

 札幌では夕方4時頃になると幹線道路に面している建物には電気が通っていた。電気が通ったマンションの共用部分には若者がスマホを充電するために屯していた。明るい内に前の日の残り物で夕飯を済ませ、夜になって暗くなると懐中電灯数本で灯りを取った乾電池も残り少なくなるので早めに寝ることにした。

翌日の朝には我が家は電気が通っていた。近所の方に訊くと午前4時頃に通ったらしい。それから冷蔵庫の中を後片付けしたり、部屋の中や建物の異常がないかなどの点検をしたりした。午後2時頃、街中に出ると銀行のATMはすでに稼働していた。中心部の地下歩行空間には一夜を明かした旅行者がスーツケースを横にして毛布の上で休んでいた。法務局の人がパンや毛布を配給している姿もあった。デパートの屋外ではこれも旅行者なのかスマホを充電する人が大勢いた。ほとんど人がいないチカホを歩いていると地下鉄の運行を再開するというアナウンスが入った。

 電気が点いてもコンビニやスーパーに牛乳、パン、電池などがない状態はしばらく続いた。保存が利かない牛乳などは全部廃棄することになるため流通に乗るまで時間がかかるらしい。電池は買い占められたため供給が追いつかなかったのだろう。他にもこんなものが売り切れになっているのかと思ったものがあったがもう思い出せない。

 コンサートも9月6日に開幕まで1ヶ月に迫っていたhitaruの杮落とし公演「アイーダ」の聴きどころを解説するという催しがあったが当然中止になった。二日後の札幌名曲シリーズも中止になった。ホール内を異常がないか点検するために何日もかかったらしい。今でこそ慣れてしまったが、その頃はコンサートが中止になることなど想像できなかった。

 数日してから里塚霊園でお墓が倒れているというニュースが入ってきた。我が家のお墓も心配になって見に行くと、地震前日の台風のよる倒木とか倒れている墓石もあり、霊園内はかなり凄惨な光景になっていた。我が家のお墓は、倒壊は免れていたが位置が少しずれたりしていた。墓石の業者も修理の注文が一杯で冬の間は工事ができないので、結局修理したのは翌年の4月だった。

 部屋のオーディオはスピーカーの位置が少しずれたぐらいで済んだ。地震で人間はいつ死ぬか判らないと一旦、死を覚悟したせいか今のうちに買えるものは買っておこうとフォノイコライザーアンプを買替えることを決めた。

いろいろなことが平常時にもどるのに1週間ぐらいかかったと思う。もしこれが冬だったらストーブが使えなくて凍死する人もたくさん出ただろう。

 また、震源地に近いところで大規模な山崩れが発生していたことは翌日にテレビを見て初めて知った。おそらく停電になっていない道外の方々は早くからこの映像を見ていたと思うが、被災地の人には一番情報がないことに気付かされた。