東京二期会 オペラ「ドン・カルロ」

 令和5年(2023年)10月7日(土)、札幌文化芸術劇場hitaruで歌劇「ドン・カルロ」を観てきた。指揮:レオナルド・シーニ/演出:ロッテ・デ・ベア、管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団。《札幌市民交流プラザ会館5周年事業》としてシュトゥットガルト州立歌劇場および札幌文化芸術劇場hitaruとの提携公演だった。

7日の配役は次の通り。フィリッポⅡ世役で出演を予定していた妻屋秀和はけがのため出演ができなくなり8日にも出演予定のジョン・ハオが出演することになった。

  配役は次の通り。

・フィリッポⅡ世:ジョン・ハオ(バス)

ドン・カルロ:城 宏憲(テノール

ロドリーゴ:清水 勇磨(バリトン

・宗教裁判長:大塚 博章(バス)

・修道士:清水 宏樹(バス・バリトン

・エリザベッタ:木下 美穂子(ソプラノ)

・エボリ公女:加藤 のぞみ(メゾソプラノ

・テバルド:守谷 由香(ソプラノ)

・レルマ伯爵&王室の布告者:児玉 和弘(テノール

・天よりの声:雨笠 佳奈(ソプラノ)

・6人の代議士:岸本 大(バス・バリトン)、寺西 一真(パリトン)、外崎 広弥(バリトン)、宮城島 康(バリトン)、宮下 嘉彦(バリトン)、目黒 知史(バス)

 

 ヴェルディの「ドン・カルロ」はベートーヴェンの第九の歓喜頌歌の原詩で有名なフリードリッヒ・フォン・シラーの戯曲「ドン・カルロス、スペインの王子」が原作になっている。ヴェルディはこの「ドン・カルロ」の他、シラーの原作で「群盗」、「ジョヴァンナ・ダルコ」、「ルイザ・ミラー」をオペラ化している。

 「ドン・カルロ」の舞台は、16世紀スペインのフィリッポⅡ世(フェリペⅡ世)治下のスペイン、フランスである。当時のスペインは「太陽が沈まぬ国」と言われるほど世界各地に植民地を持っていた。それを治めていたのがスペイン・ハプスブルク家で、そのスペイン帝国の基礎を築いたのがカール5世、その息子がフィリッポⅡ世、その息子がタイトルロールのドン・カルロである。

 物語はドン・カルロの許嫁であるフランス王女エリザベッタが政略結婚でフィリッポⅡ世と結婚することになり、愛し合っていたドン・カルロとエリザベッタが愛の相克に苦しむというのが主軸となり、そこにカトリックプロテスタントの対立などが絡んでくる、というのが全体の筋書きとなっている。

 カルロとエリザベッタの叶わぬ恋の場面が展開され、そこにカルロを好きになったエボ公女が現れるというふうにドラマが進んでいく。

 結局、カルロを愛したエボリ公女は修道尼になり、プロテスタントロドリーゴはカルロの身代わりとなることを覚悟して殺され、エリザベッタはカルロと別れ王妃として生きていくことを決心し、カルロもプロテスタントの国フランドル(英語名:フランダース、現ベルギー)の統治に向かう。そこに王と宗教裁判長が現れ、二人を捕らえようとするが、そこに墓の中から修道士に姿を変えたカルロ5世が現れて「この世の苦悩は修道院の中までついて来る。心の葛藤は、天上ににおいてのみ安らぐだろう」との声が聞こえ幕切れとなる。

 

 これが「ドン・カルロ」の梗概だが、現実のドン・カルロはこのオペラとはかなり違う。フェリペⅡ世(フィリッポⅡ世)は生涯で4度結婚していての最初のポルトガル王女との間にできたのがドン・カルロ。カルロとエリザベート(エリザベッタ)は生まれたときから政略結婚のため婚約していたのは事実だが実際には会ったことはないらしい。カルロは身体的にも性格的にもいろいろと問題があった人物のようだ。そのため父から見捨てられたと感じて奇行をエスカレートさせていき、(ここからはオペラと同じ)とうとう父に反逆してネーデルランドに行こうとして逮捕される。ついには自殺未遂をはかり牢獄で病死する。フェリペⅡ世の三度目の結婚相手だったエリザベートも男子を早産して母子ともに亡くなってしまう。カルロもエリザベートも23歳で早逝した。

 その後、フェリペⅡ世は姪(妹の子)と4度目の結婚をしてその息子がフェリペ三世となる。スペイン・ハプスブルク家はその後も近親婚を繰り返し1700年に断絶する。

 

 演奏に話を戻すと、ドン・カルロの城宏憲、エリザベッタの木下美穂子、エボリ公女の加藤のぞみがよかった。指揮のレオナルド・シーニと東京フィルハーモニー交響楽団もとてもいい演奏だった。  

 hitaruで札響とPMF以外のオーケストラを聴くのは初めてだが、確かに音色の違いは感じた。

 今後もオペラはできるだけ観に行ってみたい。

森の響きフレンド札響名曲コンサート 「発掘!発見!オペラ名序曲集」

令和5年(2023年)9月16日、札幌コンサートホールKitaraで首記の札幌名曲コンサートを聴いてきた。指揮は首席指揮者のマティアス・バーメルト。

 

プログラムは次のとおり。

ロッシーニ:歌劇「どろぼうかささぎ」序曲

・レズニチェク:歌劇「ドンナ・ディアナ」序曲

モーツァルト:歌劇「劇場支配人」

・フロトウ:歌劇「マルタ」序曲

ウェーバー:歌劇「オベロン」序曲

・エロール:歌劇「ザンパ」序曲

・ボワエルデュー:歌劇「バグダッドの太守」序曲

・ニコライ:歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲

グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲

 

 開演前にバーメルトさんのトークがあり、今回のブログラムは、オペラは上演されないが序曲が有名な曲を選んだという趣旨の話があった。オペラどころか初めて聞くような作曲家の名前もあった。編成は14-12-10-8-7で全て同じ。

 一曲づつの特徴を挙げて行くのはなかなか困難だが、中でも「オベロン」序曲と「ルスランリュドミラ」序曲はよかった。「オベロン」は名演だった思う。ホルンの出だしから音の強弱まで完璧だった。

 「ルスランとリュドミラ」序曲もバーメルトさん独自の解釈なのかチェロのピアニッシモで演奏されるところがあった。意外だったのはプログラムに日本でこの序曲が有名になったのはムラヴィンスキーの超高速演奏のレコードがあったからという趣旨のことが載っていた。そのため指揮者の外山雄三氏は意表を突くほど遅く振っていたらしい。ムラヴィンスキーのこの演奏は音楽評論家の宇野巧芳氏始め多くの評論家が推薦盤に挙げていた。外山氏は、これぐらい速いテンポで演奏しないと名演ではないという無言の圧力を感じ取っていたのだろう。ムラヴィンスキーの演奏はYouTubeで聴くことができるので一度聴いてみてほしい。

 今回は上演されないオペラの序曲だったので、アンコールは、おそらく上演回数が多いオペラの序曲だろうと、「魔弾の射手」序曲、「セヴィリアの理髪師」序曲辺りを予想していたら「フィガロの結婚」序曲だった。

第655回札幌交響楽団定期演奏会

 令和5年(2023年)9月9日、10日、第655回札幌交響楽団定期演奏会を聴きに行ってきた。

 指揮は首席指揮者のマティアス・バーメルト、ピアノはフランス出身のリーズ・ドゥ・ラ・サールで、2022年に予定していた共演が急遽中止になり、今回が初共演となる。

 元札響首席フルート奏者の高橋聖純さんが首席奏者として客演していた。

 開演前のロビーコンサートはフルート2、ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1、コントラバス1のドゥメルスマン:「ウィリアム・テル」の主題による華麗なる二重奏曲だった。

 

プログラムは、次の通り。

ラヴェルクープランの墓

・ファリャ:スペインの庭の夜

・フランク:交響曲

 1曲目は「クープランの墓」。編成は12-10-8-6-6。ラヴェルが第1次世界大戦で戦死した友人に捧げた曲。木管楽器の多彩な色彩感、特にイングリッシュホルンはとても聴き応えがあった。

 2曲目は「スペインの庭の夜」。編成は14-12-10-8-7。ピアノソロが華々しく活躍するようなピアノ協奏曲の型ではなく、オーケストラにピアノ独特の音色が加わった感じの曲。スペインの宮殿の風景が副題に付いていて色彩豊かな曲をとても鮮やかに表現していた。

 アンコールはシューベルトの「楽に寄す」だった。

 

 3曲目は「交響曲」。編成は2曲目と同じ。オルガン曲で有名なフランクが晩年に作曲した交響曲。第3楽章には各楽章での用いられたテーマが用いられるなどベートーヴェンワーグナーの影響もあるらしい。美しい旋律と広大な音場感もよく表現されていた。第2楽章でのイングリッシュホルンの独奏とハープがとてもよかった。

 あまり馴染みがない曲が多かったせいか聴衆の入りは今ひとつだった。とても良い演奏だっただけに残念。指揮者が手を降ろすまで拍手がないのはとてもよかった。

オーディオのこと 61(ハーモニー(和音)の再生)

音楽はドレミの音階から成り立っている。音階を組み合わせたのが「和音」、「和音」を一定の法則に従って横に結び合わされたのが「和声」である。

 音階は周波数の比によってつくられている。ピアノの鍵盤を想像してほしい。1オクターブ離れた音(ドとオクターブ上のド)の振動数比は1:2、5度(ドとソ)は2:3、4度(ドとファ)は3:4、というような 1  /n という式で表され、以下のように過分数によって分割される。

オクターブを5度と4度に  2/1 = 3/2 × 4/3 

5度を長3度と短3度に   3/2 = 5/4 × 6/5    

長3度を大全音と小半音に  5/4 = 9/8 ×10/9    

短3度を大全音と大半音に  6/5 = 9/8 ×16/15                

こうして得られた音階を純正調といい、次の図のようになる。

                                       

C   D   E   F   G   A   H   C  

ド   レ   ミ   ファ  ソ   ラ   シ   ド  

1   9/8    5/4   4/3   3/2    5/3  15/8    2(Cに対する振動比)

 9/8   10/9  16/15  9/8  10/9  9/8  16/15  (2音間の音程) 

【図Ⅰ】

 

 この表からわかるように、半音はEとF、HとCの間でいずれも16/15で一種類しかないが、全音は 9/8 と10/9 の二種類あることになってしまう。また5度を12回重ねたC音と、オクターブを7回重ねたC音とは、所謂ピュタゴラス・コンマだけ違う。

(3/2)12乗÷(2/1)7乗=  531441/524288     

 この純正調の主要三和音では純粋な美しい響きが得られるが、曲の途中で移調や転調をしたときには音律が狂った印象を与えたり、和音の響きが濁ったりするので都合が悪い。そこで1オクターブをすべて均等に分け12個の半音の集まりにしてしまう12等分平均律、移調、転調をしても響きが唸る(ウルフの和音)ことがないような調律方法が生み出されてきた。数学的には割り切れないがバッハの平均律クラヴィーア曲集以降、転調移調をしても演奏が可能な調律が実際に使われてきた。

 これ以上の音階についての細かい話は専門書に譲るとして、数学的には厳密ではないとしても、ここでは音階は周波数の振動比で成り立っているということを確認するに留めたい。

 

 そこで主要三和音の一つであるドミソの和音を例に考えてみる。計算しやすいように仮にドの周波数が100Hzだとするとソは五度上なので100Hz×3/2=150Hzとなる。ミは長三度上なので100Hz×5/4=125Hzとなる。

 ドが100Hzの時のドミソの和音は100Hz、125Hz、150Hzの音で構成されることになるがこれは基音であり、実際に楽器で演奏する際にはこの基音に整数倍の倍音が加わる。基音が100Hzとすると2倍音は200、3倍音は300、4倍音は400と続く。125Hzのミの2倍音は250、3倍音は375、4倍音は500と続く。150のソの2倍音ハ300、3倍音ハ450、4倍音は600、と続く。要するにハーモニー(和音)とは倍音が重なるところと重ならない音で構成されている。因みに倍音が全て重なるオクターブ違う音同士はハーモニーではなくユニゾンとなる。倍音がほとんど重ならない音同士はノイジーでうるさいと感じる音になる。

 

 オーディオ再生でよく感じる不満の一つにオーケストラ曲などで多数の楽器が重なり大きな音になったときにうるさいと感じることが多い、ということがある。オーディオで音が重なったときにうるさくなる原因の多くは「振動」だと思っている。「フレミングの左手の法則」と「右手の法則」というのがある。力と電流と磁場の関係の法則で、力が働く方が「左手の法則」で電流が流れる方が「右手の法則」となる。レコードのカートリッジやスピーカーはこの法則で電気を発生させたり、スピーカーの振動板を動かしたりする。しかし、これはカートリッジやスピーカーだけで発生するのではない。電気が流れている箇所には磁場ができるので振動(力)が加われば電気を発生する。またトランスのように電線を巻いているところに電気を通せば振動する、ということは磁場が発生しているということだ。そう考えたらオーディオ機器の入口から出口まで電気が通っているのだからここのどこかに振動が加われば電気が発生して、それがアンプなどで増幅され音を濁すことになる。ラックやスピーカーをセッティングするときにガタつきを無くせば振動がなくなるわけではない。セッティング時のガタつきのような大きな振動ではなく、本当に有害なのはミクロン単位の振動だ。レコードの溝は数ミクロンから数十ミクロンと云われている。例えば10ミクロンだとすると1㎜の100分の1。その程度の振動でもアンプで増幅されると音になる。ミクロン単位の振動でも十分音に有害な振動になり得るということはオーディオを使いこなす上で十分に認識しておきたい。ミクロン単位の振動は見ても触ってもわからないので想像するしかない。もしかしたらここに振動が伝わって音を濁しているのではないか、そうだとするとここに対策をしてみよう、というように試行錯誤を重ねていくしかない。効果がなかったら元に戻すことも常に考慮に入れておかなくてはならない。

 

 振動の発生源は音を出すスピーカーだ。レコード時代にはよくハウリングマージンということが話題になった。ターンテーブルを止めた状態でレコード針をレコードの無音溝に置いてアンプのヴォリュームを上げていく。するとボーンというハウリングが起きる。ハウリングとはマイクをスピーカーに近づけると発生するあのワーンという音のことだ。スピーカーから出る音をマイクが広いそれがアンプでどんどん増幅されていって次第に大きな音になる現象である。それがレコード針とスピーカーの間でも起こり、リスニング時のヴォリューム位置とハウリングが起きるヴォリューム位置との差をハウリングマージンという。このハウリングマージンは大きければ大きいほどいいし、できればフルヴォリュームでもハウリングが起こらないことが望ましい。

 CDが出てきてからこのことは問題視されなくなったが、振動による音の濁りを考えると振動はできるだけない方がいいと考える。振動をなくすというのはなかなか大変で、しっかりとしたガタつきのないラックに設置したぐらいでは振動はなくならない。ガタつきがあると余計な振動が発生するが、しっかりとさせてもそれなりに振動を伝えることになる。

 振動対策として大きいのはスピーカーからの振動とアンプのトランスなどの内部からの振動だ。アンプ内部の振動はまず対策の仕様がないので他の機器に伝えないようにするしかないだろう。スピーカーの場合は床にできるだけ伝えないようにするためにインシュレーターやオーディオボードを敷くなどで対策をする必要があるだろう。ケーブルの場合は何かに載せる程度で十分だと思うが、見落とされやすいのが絨毯などの静電気対策だろう。絨毯の上にケーブルを這わせたり、ケーブルの上にカーテンがかかったりすることのないようにしたい。そのためにケーブルは、静電気を帯びない木材などの上に載せるなどの対策をした方が良いと思う。

 何か一つをしたからといって劇的に音が変わるわけではないが一つ一つ対策をしていくと大きな音が重なってもうるさくならないハーモニー(和音)の響きがスピーカーからも出てくるようになると思う。

オーディオのこと 60(「レコード演奏家」ということ)

 前回、「ヴィンテージオーディオ」の中で「ヴィンテージオーディオを使っている人はオーディオ機器に合わせたソフトを選んでいる」という趣旨のことを書いた。その時、オーディオ評論家の故菅野沖彦氏が提唱していた「レコード演奏家論」のことを思い出した。「オーディオマニア」、「オーディオファイル」といった言葉はあったが「レコード演奏家」と名乗るのは「面映ゆい」感じがしたものだ。(ここでいう「レコード」は「パッケージメディア全般」を指す。)

 一般に「演奏家」と云えば楽譜を読み込み作曲家の意図を想像して音にする人のことである。楽譜に書いてあることを無視して勝手に音にして演奏することは許されない。それなら自分で作曲すべきで他人が作曲した曲をねじ曲げて改竄するようなことは許されない。演奏家とはそういうものだ。

 これを「レコード演奏家」に置き換えてみると、作曲家、演奏家だけではなく録音エンジニアの意図とかねらいも考慮してオーディオシステムから音を出す人のこと、といえるのではないだろうか。これを「原音再生」という人もいるがこれについては言葉の定義が違うと思っている。

 人間の耳というのは音量によって高域と低域の聞こえ方が違う。音量が小さくなると高域と低域の感度が鈍くなるので小さい音量で聴くときは高域と低域を上げる必要がある。そうしないと人間の耳ではフラットな周波数に感じ取れないからだ。大きなホールで出す音をそのままの縮尺で家庭の部屋で聴いてもいい音にはならない。そのためにデフォルメが必要になる。そこが録音エンジニアの腕の見せ所となる。録音エンジニアは勝手に音を弄っているのではなく、家庭で出す音量で聴く時にどのような音のバランスにするとよく聞こえるかということを考慮してミキシングをしている。録音エンジニアをもっと信用していいと思う。

 例えば模型の世界でもスケールモデルは実物の寸法をそのまま縮小したからといって見映えのいい模型ができるわけではない。小さくしたときに実物らしく見せるにはデフォルメ(変形)をしなくてはならない。録音でも同じことがいえる。ホールよりも小さい家庭の部屋という空間で本物らしく聴かせるにはデフォルメが必要なのである。

 

 昨年、ジャズのヴォーカルのレコードを買ったときに、ヴォーカルが引っ込んでいて物足りないと感じたときがあった。クラシックでは左右スピーカーを結ぶ線の辺りに音像が定位しても違和感はないが、ジャズだとどうしても物足りなさがある。タンノイのスピーカーとウエスギのアンプだとクラシックには向くがジャズには向かないという声も聞こえてきそうだ。

 そこで考えたのが録音を担当した録音エンジニアの「ねらい」だった。このレコードを再生したときに録音エンジニアはヴォーカルが引っ込むような録音をするはずがないと考えた。そのためセッティングの見直しをした。2組あるラックの左側のラックの上段にはプリアンプ、フォノアンプ、CDプレーヤー、クリーン電源を重ねて設置し、左側ラック内のパワーアンプの上にはサブソニックフィルターを載せていた。右側のラック上段にはレコードプレーヤーだけを設置していた。パワーアンプの上にサブソニックフィルターを載せるのは音に良くないのはわかっていたが、左側の上段にこれ以上機器を重ねるわけにもいかずそのままにしていた。

 何かいい方法はないかと思案していたら、ウエスギのフォノアンプは木枠で囲まれているのでこの上にレコードプレーヤーを載せてもラックの棚板に載せるのと変わらないのではないかと考えた。そこで、レコードプレーヤーの下にフォノアンプを置き、ラック内に置いていたサブソニックフィルターをCDプレーヤーの上に置いた。そうするとジャズのヴォーカルが前に出てくるようになった。クラシックでも協奏曲ではソロ楽器が前に出てきて伴奏のオーケストラはスピーカーを結ぶ線のままという具合に前後の音場感が拡がった。この音を聴いたときに録音エンジニアの方たちのオーディオ機器で再生したときにどのような音になるかという「ねらい」を再現できたような気がした。

 前回のブログでヴィンテージオーディオを使用している人たちはオーディオ機器に合ったソフトを選んでいると書いた。「レコード演奏家」はこのように作曲家、演奏家だけではなく録音エンジニアの録音の「ねらい」も考慮してオーディオ再生をする人のことではないかと思い至った。

森の響きフレンド札響名曲コンサート 「ポンマーの贈り物 ドイツ3大B」

令和5年(2023年)8月26日、札幌コンサートホールKitaraで首記の札幌名曲コンサートを聴いてきた。指揮は前札響首席指揮者のマックス・ポンマーで2019年以来4年ぶりの共演となった。

 

プログラムは次のとおり。

・J・S・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番

ベートーヴェン交響曲第8番

ブラームス交響曲第4番

 

 演奏の前にポンマーさんの通訳を勤める菅野美智子プレトークがあり、今回のプログラムは、音楽史の絵画の遠近法で使われる「消失点」がイメージできるようにしたという趣旨の話があった。

 1曲目は「ブランデンブルク協奏曲第3番」。ヴァイオリン3、ヴィオラ3、チェロ3、コントラバス1の編成。テンポはやや速めにも関わらず中身が詰まった響きが濃い演奏だった。

 2曲目は「交響曲第8番」。編成は10-8-6-4-3。この曲は3年前の2020年10月6日、「オーケストラでつなぐ希望のシンフォニー」(ブログ参照)で秋山和慶の指揮で聴いた。その時はこの曲のイメージとは違う「雄壮で力強い」演奏だった。この時の編成は12型で決して大きくはないが外に拡がるスケールが大きい響きだった。今回は編成を小さくし弦楽器を核とした上で木管の旋律をはっきりと聴かせるような響きだった。

 3曲目は「交響曲第4番」。編成は14-12-10-8-7。縦の線を重視した厚い響きで力強さもあった。ここでも弦楽器を核とし金管が外に拡がるような響きを重視しているようで第2楽章冒頭のホルン、第4楽章のトロンボーンはとてもよかった。

 今回のプログラムの核は1曲目のバッハのブランデンブルク協奏曲で、ベートーヴェンにはバッハがあり、ブラームスにはバッハとベートーヴェンがあることを実感させてくれるプログラムであり、演奏でもあった。そのため派手さを押さえ求心的で中身が詰まった演奏会だったと感じた。

 

オーディオのこと 59(ヴィンテージオーディオ)

 オーディオには「ヴィンテージオーディオ」と言われる分野があり、専門店もある。「ヴィンテージ」とは日本語にすると「年代物」と云っていいと思う。スピーカーだとタンノイのオートグラフ、JBLオリンパス、ハーツフィールド、アルテックのA5、A7などが有名だ。アンプだとマッキントッシュマランツ、クォードの真空管アンプなどがあり、レコードプレーヤーならガラードなどがある。

 オーディオに興味を持ち始めた80年代初め頃には昔のオーディオ製品は「過去の物」という扱いだった。生活用品の中古品を扱っている店でタンノイの大型スピーカーがいろいろな物に混じって置かれていたのを憶えている。世の中は真空管アンプからトランジスターアンプ、大型フロアスピーカーから中型ブックシェルフスピーカーへと移っていった時期だった。その頃はまだ「ヴィンテージ」という言い方は一般的ではなく、「中古品」だった。

 50年代末にステレオLPが発売されてから「Hi-fi(ハイファイ 高忠実度再生)」と云うことが謳われるようになりオーディオ機器が進歩していった。その頃はまだ真空管アンプと能率が高い大型スピーカーの時代だった。海外製品が多くて値段も高く、とても気軽に買えるような値段ではなかった。そのため欲しくても買えなかった人たちの一部は自作派になった。おそらくこの頃の「オーディオマニア」とは自作派のことだったかもしれない。

「買えない製品」だったオーディオ機器を「買える製品」にしたのが国産トランジスターアンプと新素材を使った国産スピーカーの登場だった。トランジスターアンプはそれまでの真空管アンプよりパワーがあり、歪も少なく、出力トランスがない(OTL)ので値段も安かった。新素材を使用したスピーカーはそれまでの大型スピーカーより周波数特性が伸び、歪も少なかった。能率は少し劣るがトランジスターアンプはパワーがあったので問題はなかった。オーディオ機器は「買える製品」になり、多くの人たちがオーディオ機器を買い求めた。70年代に始まるオーディオブームにはこのような時代背景があった。

 国産オーディオ機器はその後、オーディオ市場を席巻していった。80年頃にはすでに真空管アンプはほとんど市場から姿を消し、トランジスターアンプになっていた。スピーカーもエンクロージャーが響くような複雑な構造の大型スピーカーよりも、ウーファーが30㎝前後、重量が30㎏前後の中型ブックシェルフスピーカーが主流になっていた。かつて「高額で買えない憧れの製品」に過ぎなかった「オーディオ機器」はトランジスターアンプと中型ブックシェルフスピーカーの登場で、「オーディオ機器」は「手が届く買える製品」となり普及していった。

 

 80年代は、主に国産製品を推奨していた音楽之友社のステレオ誌とFM雑誌のオーディオ評論、それに対して海外製品を推奨していたステレオサウンド誌のオーディオ評論というようにオーディオ評論も二つに割れていた。前者は国産の値段が比較的手頃でC/P比(今風でいうなら¨コスパ¨)が高い製品を推奨していた。後者は値段が高くても「主張があり、味がある」音がする製品を推奨していた。前者の評論家で有名だったのが長岡鉄男氏でFM誌では絶大な人気があった。音楽之友社などで健筆を振るっていた高城重躬氏はとてもメーカーに影響力があった。高城氏の「原音再生」の方法で製品開発をしていたメーカーもあった。後者の代表はステレオサウンド誌の常連の評論家で有名なのは菅野沖彦氏、瀬川冬樹氏などだった。前者は、海外製品は値段が高いだけで音が「原音」からかけ離れすぎていると主張していた。後者は、国産は「無味乾燥」で音楽的ではないと主張していた。 

 当時、新製品は雨後の竹の子のように次々と出ていた。ステレオ誌は月刊、FM雑誌は隔週刊、それに対してステレオサウンド誌は季刊で3ヶ月に1回の発行だった。オーディオ機器は日進月歩で進化していて新しい方が性能もよく音もいいと思われていた。情報量も人気も前者の方に分があるように見えた。

 「ヴィンテージ」という言葉が一般的になったのはバブル期に有名なワインが身近になってからだったと思う。それがいつのまにかかつて憧れで買えなかったオーディオ機器にも転用されたのではないかと推測している。国産の新製品は雑誌を賑わせている「光」のような存在だった。それに対してヴィンテージ製品はステレオサウンド誌に掲載されている中古オーディオ店の広告で見るぐらいで「影」のような存在だった。

 それがバブル崩壊後の90年代中頃に状況が変わる。大手電機メーカーが相次いでオーディオ市場から撤退し始めた。ローディー(日立)、ダイヤトーン(三菱)、オーレックス(東芝)、テクニクス松下電器あるいはナショナル 現パナソニック)、NEC、ヤマハ、ビクター、ソニー、オットー(サンヨー)など。オーディオ専門メーカーのパイオニア、トリオ(ケンウッド)、サンスイ、オンキョーも大幅に製品を縮小していった。FM雑誌も相次いで廃刊した。またこの頃、テレビの「開運!なんでも鑑定団」という番組などの影響もあり、オーディオ製品に限らず「中古品」でも高い値段が付くことに多くの人たちが気付き始めた。「光」がなくなると「影」もなくなったのである。

 90年代後半、外国盤中古レコードを購入するようになるとその店に来る人たちの中に

ヴィンテージオーディオ店に出入りしているらしい人がいた。かつての真空管アンプやスピーカーがとても高い値段になっていることを知った。この頃、すでに「ヴィンテージオーディオ」という言葉は広く知られるようになっていた。「中古」が全て「ヴィンテージ」になったわけではなく、それなりにブランド力のある製品を「ヴィンテージ」と呼ぶらしい。

 

 昔のオーディオ機器はどんな音がするのだろうと、一度興味を持って郊外の住宅地の中にあるヴィンテージオーディオ店に行ってみた。中に入るとその頃よく行っていた中古クラシックレコード店で見たことがある人(N氏としておく)がいた。店員の方に「ヴィンテージオーディオの音を聴いてみたくて来た。」と話すと「今、どんなシステムでどんなレコードを聴いているのですか?」と訊かれたので「オーディオシステムのアンプはウエスギ(上杉研究所)でスピーカーはタンノイのスターリングTW、よく聴くレコードはフルトヴェングラーです。」と正直に答えた。するとN氏が「最悪だな、ウエスギなんて値段が高いだけで中を見たら全然だめだ。」とつぶやくように言った。店員がN氏を少し遮りながら、「解像度が高いとか周波数が伸びているのがいい音ではない。やわらかい音がいい音だ。」という趣旨のことを言った。「スピーカーは振動板から音が出るのではなく、エッジから出る。だからエッジは硬くなくてはならずゴム(スターリングはゴムだった)ではダメだ。」などと講釈を始めた。それではということで音を聴かせてもらうと、芯がないボワッとした音で、高域も低域も出ていなかった。「こんな音のどこがいいのか」と言う言葉が喉元まで出掛かったが何とか我慢した。特に音について何も言わないでいると、店員とN氏はMCトランスもウエスギではダメで「ここで音が死んでいる(某S社の開発責任者のようだ)」というようなことを言ってまずはMCトランスから替えた方がいいようなことも言ってきた。店員は一つ一つ私に言ってきたことをN氏にこれでいいかと確認を取っているようだった。

部屋の広さも訊かれたので「10畳ぐらい(本当はもう少し広いが)」と答えるとN氏は「それなら○○ではなく××でいいのではないか」などという始末だった。店員は私が何も言わないことに少し苛立ちを見せ始め、タンノイ、ローザーなど展示しているスピーカーをあれこれ鳴らし始めた。

 フルトヴェングラー東芝盤WFの「悲愴」のレコードもかけたりしたが、「フルトヴェングラーなんて鳴らないレコードを聴いているし。」というような捨て台詞のようなことをN氏に向かって言い、店員とN氏は連携しているようだった。「鳴らないのではなく鳴らせないだけだろう」と言いたかったがここでも我慢した。いい時間になったのでさっさとこのオーディオ店を後にした。店に来る前はどんな音がするのだろうという期待もあったがこれなら自分には関係ない機器だと見切りを付けることができた。

 オーディオ店では何も言わなかったが、中古レコード店ではいろいろと言った。店主に「あんな音をいい音だと思っている人たちが少ないことが驚きだった。」という趣旨のことを散々言った。そしたら数日後、この中古レコード店にN氏が来ていた。おそらく店主から私が何か言っていなかったか様子を見に来ていて、店主も多分話しただろう。N氏は変な顔をしてこちらを見ていたが何も言葉は交わさなかった。それ以降この中古オーディオ店には行っていない。

 

 10年ぐらい前に旅行のついでにオーディオ機器を揃えている喫茶店巡りをしたことがある。ほとんどがジャズ喫茶だったが、行ったところは全て「ヴィンテージスピーカー」で、音は先に書いた「中古オーディオ店」で聴いたような「芯のないボワッとした音」か「バランスを無視した迫力だけの音」のどちらかだった。あるジャズ喫茶では片チャンネルに15インチのウーファーを2発(左右で4発)使用していた。確かに迫力はあるが、音のバランスを全く欠いていた。そこのマスターはその迫力こそがオーディオシステムだと言わんばかりだった。この15インチ4発ウーファーの威力が発揮できる曲をいい曲と判断しているようだった。感想を求められても、このオーディオシステムで商売をしている人にそのままの印象を言うわけにはいかないので何も言わなかった。黙っているのもなかなか辛いのでオーディオ喫茶巡りは数年で止めた。

 東京に旅行したときに銀座のオーディオ店であまり見たことがない海外製ということぐらいしかわからない横長の「(多分)ヴィンテージスピーカー」を聴かせてもらったが高域も低域も伸びていない普通の音だった。店員から「どうですか」と感想を求められたが、何も答えられなかった。

 

 結局、今のところヴィンテージスピーカーとのいい出会いはなかった。しかし、ヴィンテージ機器の音はいいと思っている人は少なくない。ただ、ここまで「生の音」とかけ離れている音をいいというのは基準がよくわからない。「生の楽器に近い音」、「演奏者の表現のわかりやすさ」、「ハーモニーの美しさ」などはやはり「いい音」の条件であると思う。今まで聴いてきた「ヴィンテージ機器」はそれらの条件とは全く逆だった。

 また、「ヴィンテージオーディオを使用している人たち」の中には、非ヴィンテージ機器への「憎悪」と「軽蔑」がある人が少なくないように思われる。長い間「影」の存在だったことの裏返しなのかSNSで突然、他人の現代的なオーディオシステムに噛みついてくる人を見かけるが根底にはそういう気持ちを持っているのではないだろうか。

 「オーディオ」というのは音楽を聴くためのものだと思ってきたが、「ヴィンテージオーディオを使用している人たち」はまず「ヴィンテージオーディオ機器ありき」で音楽はその次なのだろう。それぞれ価値観が違うということではとても勉強になったが、これからもあまり接点はなさそうな気がする。