フルトヴェングラー指揮 モーツァルト交響曲第40番

 クラシック音楽とはつまるところ西洋の近代音楽であり、現代の日本人には全て理解できるとは言い難い部分もないわけではない。わかるところはわかるけど全てわかっているかと問われると果たしてどうだろうと考えてしまうこともある。そんな想いを抱きながらも長年クラシック音楽を聴いてきた。

 もう10年ぐらい前になるが、テレビ放送で中野京子さんの「『怖い絵』で人間を読む」という番組を偶然見て、絵画の名作について書かれた背景を知るといろいろな深く絵画を理解できることを知った。それまで全く絵画に興味がなかったのだが、中野京子さんの著作を読み漁り、絵画を通じて西洋の王室の歴史、風俗とか習俗、宗教や価値観など、国や時代が違うとこんなにも違うのかということがたくさんあった。

 このテレビ番組の最初に取り上げられたのが、スペインの画家ディエゴ・ベラスケス作「フェリペ・プロスペロ王子」だった。それを抜粋して要約すると次のようになる。

 

 スペインの巨匠デイエゴ・ベラスケス(1599~1660)に「フェリペ・プロスペロ王子」(1659)がある。これはベラスケス最後の肖像画といわれている。この王子は十七世紀スペインに君臨したフェリペ4世の嫡男である。贅沢に金糸を折り込んだ薔薇色の少女服を着て、金髪で瞳の色は淡く、肌も透きとおるように白く、頬はふっくらしているものの血の気は薄くて、健康的な赤みはわずかしかない。誰の胸にも、王子がこの先長く現世に留まることはないだろうと予感させる絵である。事実、肖像画が描かれたのは王子が2歳のときで、4歳で亡くなっている。

 王子は近親婚の弊害で、生まれたときから病弱だったので発作を起こしては何度も死の淵をさまよった。王家にとっては、残された最後の頼みの綱なので何としても命を長らえさせるために、医者や祈祷師、占い師などが四方から呼び集められた。

 ウエストからぶら下がった鈴は、鈴の音で魔を払おうとするための「魔除け」である。他に伝染病除けのハーブ入り袋も下がっている。

 また女児服については、女児に比べて男児死亡率が高いことが経験的に知られていたために「魔」の眼を女児服で見誤らせようとしたとものとされている。

 椅子に添えた手は生命力に乏しく、ここからも長くは自力で立っていられなかったことを思わせる。ベラスケスも王子が決して年をとることはないと気付いていたのではないだろうか。子どもの生き生きとした輝きの代わりに、幼児らしからぬ静謐さが死への親和性を仄めかしているようである。

 

 これを読んだ時にフルトヴェングラー指揮モーツアルト交響曲第40番の演奏を思い出した。

 フルトヴェングラーモーツァルトを演奏した録音には交響曲第39番、第40番、オペラ「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「魔笛」、などがある。しかし、これらの演奏は日本では「モーツァルトらしくない」、「フルトヴェングラーモーツァルトを理解していない」などと批判されてきた。中でも有名な第40番はスタジオ録音もあり、他の同時代のワルタートスカニーニなどの指揮者と比較されてきた。

同曲のフルトヴェングラーの演奏は特に第1楽章のテンポが速く、こんなところが上記のような批判を生んだのではないかと思われる。

 しかし、今一度モーツァルトのことについて考えてみたい。モーツァルトは妻コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが4人を乳幼児のうちに亡くしている。モーツァルトも生い先が無い自分の子どもの今際に何度も立ち会っていたのである。

モーツァルト交響曲第40番の第1楽章はテンポがアレグロモルトと速いながら「悲しみのシンフォニー」という別名もあるように活発さよりは悲しみを感じさせる曲である。ベートーヴェンブルックナーのようにアダージョで深い悲しみを表現するのではなく、アレグロでありながら哀しみを湛えているのである。それはおそらく余命幾ばくもないとわかっている子どもから将来の夢を聞かされるようなやり場の無い悲しみではないだろうか。死が刻々と迫ってくる、じっとはしていられない、居ても立っても居られない、できることはなんでもしてやりたい、しかし何もできない、そんな無力感に苛まれるような悲しみなのだ。

 フルトヴェングラー交響曲第40番のテンポの速さはそんな焦燥感に駆られた悲しみを表している。美しい旋律に酔いしれている余裕などない、音符が後から後から追い掛けてくる、とにかく先にいくしかない、そんな演奏である。

 

 フルトヴェングラーモーツァルト交響曲第40番の演奏は、ベラスケス作「フェリペ・プロスペロ王子」に描かれた大人の叶わない願いとかやるせなさを感じさせるような演奏に思える。