オーディオのこと 8(オーディオのこれから)

 オーディオ関連またはレコード批評の本にはよく「生演奏とオーディオは、どちらの方が音がいいか」というような内容の記事が掲載されていることがある。その論旨は概ね「生演奏の方がオーディオより上に決まっている」という言説を批判しつつ、生演奏とオーディオは別物であり、むしろオーディオでは生演奏では聴けないような細かい音も聞こえる。あるいは、演奏家が何度も納得がいくまで繰り返し演奏した中で最もいいフレーズが収録されているので、レコード(CDなども含む録音一般)の方が、演奏家が求めていた音が聞ける、というようなものである。

 古い物では、すでに昭和9年の野村あらえびすの批評に見られる。その頃、ヨーロッパでコルトーシャリアピンを聴いてきた人が、全然良くないという話をしたことに対して、レコードではとてもいいという内容の評論がある。その後も70年代から80年代にかけて高城重躬、五味康祐長岡鉄男、菅野沖彦といった名だたるオーディオ評論家たちが、生の音とオーディオの音は別物であるという主張を繰り返してきた。その頃は日本も今のようなコンサート専用の音楽ホール、オペラやバレエが上演できる多面舞台を備えたホール、本格的なパイプオルガンというものもなく、有名な一流の演奏はレコードで聴くほか無かった。また、この頃はオーディオ機器がどんどん良くなり普及していった時代でもある。

 これはオーディオ側からの見解であるが、生演奏の現場からは確か指揮者の大町陽一郎さんが何かの本に書かれていたと思うが、日本でオーディオが盛んなのは生演奏に接する機会が少ないからだ、というようなことを書いていたと思う。生演奏を聴く機会が多い欧米ではオーディオに多額のお金を使う人は少ないとも書かれていたように思う。要するに音楽を聴く上で、主役はあくまでも生演奏でオーディオは脇役という考え方である。

 

 では、札幌ではどうだったろう。札幌で生演奏といえば札幌交響楽団の演奏会で、厚生年金会館(後のニトリ文化ホール)の定期演奏会札幌市民会館(現在は跡地にカナモリホール)の北電ファミリーコンサートだった。当時の札響は、外国のオーケストラを聴く度に札響の実力のなさを思い知らされることが多かった。札幌の住人の1人として、生演奏かレコードかというのは、これらのホールで札響の生演奏を聴く方がいいのか、それとも世界の一流のオーケストラを高級なオーディオシステムで聴くことの方がいいのか、という比較だった。

 結局、私自身はCDという新しい媒体が普及してきたこともありオーディオにお金と時間を費やすことにした。オーディオ機器を次第にグレードアップしていくに従って、徐々に生演奏からは遠ざかり、北電ファミリーコンサートも札響定期もいつの間にか聴きに行かなくなっていた。それからレコード蒐集にかなり時間とお金を費やし、それがある程度目処が立った頃、再び札響の定期を聴きに行こうと思った。コンサートホールは厚生年金会館から札幌コンサートホールKitaraになっていた。

 札響を聴いた後、来札した海外のオーケストラを聴いても、以前ほどいいとは思わなくなった。札幌でもいいホールでいい演奏が身近で聴けるようになったのだ。

 オーディオ機器もとても進化している。各電子部品の性能が向上し、製品の精度とか造りがとても良くなり、その効果がはっきりと音にも現れている。しかし、その分値段もかなり高くなっていて、それなりにいい製品は誰にでも買えるような物ではなくなってしまっている。

 

 生演奏でいい演奏が身近で聴けるようになると、逆にオーディオの方がその存在意義を問われてくる。生演奏を向こうに回してオーディオ独自の音を出そうと思ったら、それなりにお金もかかり住環境も整える必要がある。

 かつてのように演奏レベルもそれほど高くなく、それほどいい音のホールもない頃であれば、いい演奏をいい音で聴くにはオーディオで聴くしかないと覚悟を決めてオーディオに投資をすることができた。しかし、現在のようにいい音のホールで高い演奏レベルの生演奏を身近で聴けるようになると、オーディオに何百万もお金をかけることなんて無駄だ、という考えが出てきても不思議ではない。オーディオは全く無駄ではないけどあくまでも生演奏が主でオーディオは従であり生演奏を補完するようなものでしかなく、お金があるのならコンサートのチケットを買う方がいい、となる。高級なオーディオはこれからマーケットとして本当に難しくなっていきそうだ。