クラシック音楽を「聴く」ということ

 本格的にクラシックを聴き始めたのは高校生の時だったが、クラシックばかり聴き始めると流行歌を聴いている余裕が全くなくなった。レコードは廉価盤を買っていたが、それでもせいぜい1ヶ月に5枚ぐらいしか買えず、知っているクラシックの曲がどんどん増えていくわけではなかった。流行歌の方は数ヶ月もすると流行っている曲が全く判らなくなった。

 私が高校生の頃はアイドル全盛時代で、キャンディーズの解散が社会現象になったり、金八先生がドラマで大ヒットしたりした頃だった。他に洋楽もあったしニューミュージックなどもあった。もちろんクラスメートたちの音楽の話題は今流行っている曲で人気があるアイドルの話題ばかりだった。そういうものを全く知らずにクラシックばかり聴いている者は変わり者として(多分)白い目で見られた。小さい頃から楽器を習いクラシック音楽に親しんで来たとか、成績が優秀というのなら一目置かれることもあるかもしれないが、まだ聴き始めでそれほどたくさんのクラシックの曲を知っているわけでもなかった。成績が優秀というわけでもなかったので教師と話すこともなかった。

 ピアノを習っている同級生がいてショパンやリストの曲を弾ける人がいたが、ピアノ曲しか興味がなかった。プログレなどに原曲がクラシックの曲があったのか、たまに誰かからこの曲を知っているかと訊かれてもわからないことの方が多かった。今から思うとプログレに使われていたのは、展覧会の絵、はげ山の一夜、惑星の「木星」だったようだが、この頃はよく知らなかった。ビートルズジョン・レノンのファンの人から、バーンスタインシューベルトの歌曲よりもビートルズの曲の方がいいと言っていたと、上から目線で言われたこともある。シューベルトの歌曲のことも高校生の時はあまりよくは知らなかった。他にもクラシックを聴いているというだけで軽蔑の眼差しを向ける人もいた。彼は山口百恵のファンだった。真面目な生徒はアイドル好き、少し不良がかったのがロック好き洋楽好きだった。

 クラシックを聴き始めた頃というのは流行歌を知らず、かといってクラシックに詳しいという感じでもなかった。そういう変わった高校生は「日陰の存在」だった。ようやく流行歌を知らなくてもいいと自信がついてきたのはフルトヴェングラーのレコードを聴いてからだった。同じ曲でも演奏が違うとこうも違って聞こえるのかということがわかったことと、フルトヴェングラーの著作を読み、音楽論、芸術論などに触れたことから、流行歌を聴いている「普通の高校生」に対して距離を置けるようになった。

 大学に進学しても状況はあまり変わらなかった。むしろ頭からバカにしてくる人の方が多かったかもしれない。楽器も弾けないのにクラシックばかり聴いているというのはたいしたことがないと思われるらしい。ただ、大学生になると最初からある程度「距離を置く」ということができるようになったので何か言われても特に苦にすることはなくなっていた。その内、オーディオに興味を持つようになり、「さっぽろAVシアター」というクラシックの新譜を紹介するイベントにも毎月通うようになった。自分以外にフルトヴェングラーのことを知っている人に会ったのは、そこの講師の人が初めてだった。この催しで知り合った社会人の方はかなり豪華なオーディオ機器を揃えていた。聴いている曲は名曲名盤選で紹介されている曲ばかりで話すこともそこに書かれていることと同じだった。フルトヴェングラーのことはあまりよく知らないようだった。

 3年生になってゼミに入ると吹奏楽団でユーフォニュームを弾いている人と知り合いになったが、ブルックナー好きで金管が派手に鳴る曲ばかり好んでいた。この頃はまだブルックナーまで手が回らなかったのであまり話がかみ合わなかった気もする。

 就職して社会人になっても周りにクラシック音楽の話をする人はいなかった。年配の人はカラオケで演歌だし、同年代は今の流行歌だった。カラオケでも歌う曲がないので新人の頃はカラオケに連れて行かれるのが嫌だった。社会人になると地元のオーケストラや値段が高い海外のオーケストラなど生演奏を聴く機会が増えたが、そこで聴いた感想を共有できるような人はいなかった。それでも社会人になると学生時代よりは金回りが良くなったのでCDもたくさん買えたし、オーディオ機器も揃えられるようになったので周りのことなど気にせずに趣味に没頭することができた。

 またこの頃には楽譜に目を通しながら、音楽を聴くのも意外と面白いことに気付いた。ここではこの楽器が鳴っているのかとか、この旋律の音型はこうなっているのかというように「音を目で見る」と新たな発見があることにも気付いた。

 クラシック音楽フルトヴェングラーの話を直接できる人に会ったのは中古レコード店で知り合った方(A氏としておく)だった。A氏は私より一世代上の方で東京から北海道に引っ越してきた方だった。その人から昔のフルトヴェングラーのレコードのことや、この方の父親(東京裁判で通訳をしたらしい)が戦前にベルリンでフルトヴェングラーの生演奏を聴いたらしく、その時はこんな印象だったという話を聞いたことがあった。A氏からSPのポータブル蓄音機をいただいたり、貴重なフルトヴェングラーのレコードをもらったりした。しかし、それも4年ぐらいしか続かずA氏は店主とトラブルがあり来なくなった。私も間もなく店主に愛想が尽きて行かなくなった。

 この店はクラシックの中古盤の専門店でクラシック好きが集まってはいたが、他人の好みの演奏を訊いて、そんなのよりこっちの方がいいとかそんな演奏家はダメだとか他人の好みを貶めることばかり言ってくる人が集まる店だった。店主だけではなく常連の取り巻きまでが同じように悪口を言ってくる。フルトヴェングラーが好きだというと、オーケストラにはコンサートマスターがいればよく指揮者なんていらないとか、オーケストラの演奏は両翼配置がよく第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが並んでいるアメリカ式配置、ドイツ式配置の演奏はダメなど、愚にも付かないような理論を金科玉条のように振りかざして他人の好みの演奏を貶めてくるような人たちの巣窟だった。店主に至ってはレコードを売って商売しているにもかかわらずステレオとモノラルの違いはないとまで言う始末で、呆れて開いた口が塞がらなかった。学校では周りにクラシックを聴く人がほとんどいなかったし、クラシックファンが集まりそうなところに行くと、今度はお互いに足の引っ張り合いと自分が聴いている演奏が一番いいと言い張るような人たちばかりだった。そんなことからもう迂闊にクラシック音楽の話なんかできないと思うようになった。

 中古レコード店に行かなくなってからは通販リストやインターネットから中古レコードを購入していた。ネット通販の方が遙かに買いやすいし何を買おうと、当たり前だが、あれこれ言ってくることはない。

 2011年秋から札響がベートーヴェン交響曲ツィクルスを演奏するのでそれを聴きに行った。全シリーズを聴いて以前の札響とは随分変わった(うまくなった)ことを実感し、20年ぶりに札響定期会員に復帰した。以前とは違い、コンサートが終わった後、また聴きに来たいという気持ちが持続するようになった。札幌コンサートホールKitaraの音もいろいろな座席で聴いてみるとどの楽器もよく聞こえてくる音のいいホールだと見直した。

 2014年に「さっぽろAVシアター」の講師の方が亡くなり、このイベントが終了した。講師の自宅にあった約2万枚のレコードをこのイベントに来ていた常連の方で分けて欲しいという遺族の方の申し出があった。もうCDは聴かなくなってオーディオシステムからCDプレーヤーを外して手放していたので、当初、CDは欲しくなかったが、せっかく30年も通い続けた講師の方の「遺品」でもあり、新たにCDプレーヤーを購入する覚悟を決めて千枚ほど譲り受けた。「名盤」と言われる盤もたくさん選んで持ってきたが、今もあまり聴いていない。

 またこの年には、15年ほどかかった外国盤でフルトヴェングラーのコンプリートコレクションを揃えるという目的を達した。オーディオシステムもフルトヴェングラーのモノラルレコードを最優先に再生するためのシステムがスピーカーを揃えたりして一段落したのもこの頃だった。ようやくソフトの面からもハードの面からもあれを買わなければこれを買わなければという「呪縛」から逃れられるようになった。

 

 今ではクラシック音楽の話はSNSでもできるようになった。最初に利用したのはミクシィだった。ミクシィの「日記」にコンサートの感想などを書いていた。ミクシィにはクラシックの曲毎に名盤を紹介し合うというグループがあったが、ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」でフルトヴェングラーの演奏を紹介すると「フルトヴェングラーを聴く人には妙な拘りがある」というようなことを言われて直ぐに退会した。日記のような機能は私のように長い文章の方が好きなことを書きやすいので使いやすかったのだけど残念ながらミクシィは退会することにした。

 フェイスブックは、最初、地域の団体内で使用するために登録した。その後、オーディオ、クラシック音楽フルトヴェングラー関連のグループに入ったこともあったがどれも自分の興味とは違う方向の投稿ばかりで付いて行けなくなりどれも退会した。とくにオーディオ関連のグループでは変な人に絡まれて嫌な思いもした。フェイスブックは地域の団体内だけの通信手段として使用している。

 SNSは、今はツイッターとブログだけにしている。ツイッタークラシック音楽のコンサートと日常用とオーディオ用にアカウントを分けている。コンサートの感想は、以前メールでやり取りをしていた人向けに書いていたことがあるが、その人とも疎遠になり、2019年からブログに書くことにした。コンサートの感想の他、オーディオ、オーディオ試聴会、日常のことなどをブログに書いている。コンサートのブログに書くことはいつ、どこで、どんな曲を聴いたかということと、「聴いて何を感じたか」と「自分なりに演奏家が何を表現しようとしたかの解釈」を書くようにしている。コンサートを聴きに行くのは批評するためではないので「いいとは感じなかった」と書くことはあっても「駄目な演奏」と決めつけるようなことは書かないようにしている。「今日のコンサートはよかった」という方の気分を害してまで自分の感想を押し付けたいとは思わないので、「あまりよくなかった」と感じたときはツイッターにブログを挙げないようにしている。

 

 今から振り返ってみると、クラシックを本格的に聴き始めてからは、曲の善し悪し、演奏の善し悪しなどを話せるような人はほとんどいなかった。そのため曲や演奏のことは「音楽評論家」などの肩書きを持った人の批評を本で読んだ。昔の評論家は「これははいい」、「これは駄目」など割とはっきりと言う人が多かったような気がする。好みが合う人もいれば合わない人もいるし、同じ人でもここは合うけどここは合わないということもあった。

 この曲の演奏はこれが推薦盤だと言われて、買って聴いたらそれほど良くなかった、ということが何度か続くと次第に評論家も当てにならないという感じになってくる。そのうえ「この曲はこういう曲だからこう演奏しないと駄目だ。だからこの演奏は駄目で、この演奏家はこの作曲家を理解していない。」などというように、この人何様なのかというような特定の価値観を押し付けてくるような評論に辟易したということもあった。またこういう評論家に限って人気があったりする。そんなことから雑誌の音楽評論にも愛想が尽きて、「名曲名盤選」のような本はカタログ代りとして読み、レコード芸術の購読も一時期だけだった。

 

 クラシックを聴いていると言うと、「高尚な趣味」と思われることもあるかもしれないが、若い頃は少なくとも楽器の演奏などを本格的に習っているのでない限り、クラシックを聴いていると言うと蔑まされているなと感じることが多かった。音楽の感動というのは10代とその後では印象の大きさが全く違う。私がフルトヴェングラーのレコードを一生聴き続けようと思ったのは10代のあの頃だったからこそだと思う。もし20代、30代で初めて聴いてもそれなりに感動したかもしれないが、10代の頃と同じではなかっただろう。どうしても年齢を重ねていくと知識も増えるし「訳知り」みたいになってくる。知識が増えるにしたがって「感動」の度合いも落ちてくる。そうするとクラシックばかり聴いていると周りから白い目で見られるような10代の学生時代にクラシックを聴いて感動するという体験は得られにくい。もちろんこれは楽器を習っていない人のことで、将来、音楽で食べていくという目標をもって楽器を習っているような人は別だ。

 クラシック音楽界には楽器を演奏できる人とできない人との間に大きな壁があると思う。演奏する人はやはり演奏する人同士で集まることが多いし、そこでは一緒に演奏するという目標もある。しかし、演奏しないクラシックファンというのは今まで書いてきたように足の引っ張り合いをするような感じになりがちだ。これは音楽評論家から一般のファンまで同じような感じがする。

 この曲の録音でどの演奏がいいかと訊かれて、自分の中ではこれが一番いいという演奏があっても、「この曲ならこの演奏とこの演奏をよく聴きますが、他にもこんな演奏もあります」ということぐらいしか言えない。本当に一番良い演奏は自分の中にしまっておくのが一番いい。下手にこれが一番良いなどと言おうものなら「感動した体験」を頭ごなしに否定されるようなことを言われるだけだということを中古レコード店で嫌というほど味わった。「フルトヴェングラーはすごい」という人に会っても、もう話が弾むことはないだろう。その次にフルトヴェングラーのどの演奏がいいか、戦時中のライブ録音なのか戦後のスタジオ録音なのかでまたああでもないこうでもないという話になる。YouTubeにはそんな動画も挙がっている。

 

 今はクラシック音楽を聴いた感想はコンサートだけで、録音されたものについてはあまり書くことはなくなった。コンサートの感想も「良かった」か「あまり良くなかった」かのどちらかだが、「良かった」が多い印象でそこはSNSで「共有」できているような気がする。

 録音された演奏についてはこの「共有」はあまりできない。録音された演奏となるとどんなソフト(レコード、CDなど)をどんなハード(オーディオ機器)で聴いたのかということに触れないわけにはいかないので話がますますややこしくなり、あげくの果てにお互いに罵り合い、足の引っ張り合いになる。ただでさえ「クラシックを聴いている人」は少ないのに、ようやく同じ趣味の人に出会ったと思ったら足の引っ張り合いになるのだから失望感しかない。録音された演奏の良し悪しはあまり言わないで黙って好きな盤を聴いているのが一番いいようだ。